2023年1月27日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』推古天皇類書3

 『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『帝皇本紀』は続けて「元年夏四月庚午朔巳卯立廄戶豐聡耳皇子立爲皇太子仍錄攝政以万機悉委矣橘豐日天皇第二子也母皇后穴穗部間人皇女皇后懷妊開胎之曰巡行禁中監諸司至于馬官乃當廄戶而不勞勿産之生而能言有聖智及壯一聞十人訴以勿先能辨兼知未然且習内教於高麗僧慧慈學外典於博士覺哿並悉達矣父天皇愛之令居宮南上殿故稱其名謂上宮廄戶豐聡耳太子矣秋九月改葬橘豐日天皇於河内磯長陵二年春三月丙寅朔詔皇太子及大臣令興隆三寶是時諸臣連等各爲君親之恩競造佛舍即謂寺焉九年春二月皇太子初興宮室于斑鳩十一年十二月戊辰朔壬申始制冠位十二階各善有差十二年春正月戊戌朔始制冠位於諸臣各有差夏四月丙寅朔戊辰皇太子親肇作憲法十七条別在日記十三年冬十月皇太子居斑鳩宮」、【元年の夏四月庚午朔巳卯、厩戸豊聡耳皇子を皇太子、摂政としてすべて任せた。橘豐日天皇の第二子で、母の皇后を穴穂部間人皇女、皇后は出産予定日に、禁中で、官司達を見回ったが、馬司のところにきたとき、厩の戸に当たって、難なく出産した。太子は生まれながらにものをいい、聖人のような知恵を持ち、成人してからは、一度に十人の訴えを聞いても、誤ることなく、先の事までよく見通した。また、仏法を高麗の僧・慧慈に習い、儒教の経典を覚哿博士に学んだ。そしてことごとくそれを極めた。父の天皇が可愛がり、宮殿の南の上宮に住まわせた。そこでその名をたたえて、上宮厩戸豊聡耳太子といった。秋九月、橘豐日天皇を河内磯長陵に改葬した。二年の春三月丙寅朔、皇太子と大臣に、仏教の興隆を図らせた。このとき、多くの臣・連たちは主君や親の恩に報いるため、きそって仏舎を造った。これを寺という。九年春二月、皇太子ははじめて宮を斑鳩に建てた。十一年十二月戊辰朔壬申、はじめて冠位十二階を制定した。それぞれ適当な位を定めた。十二年の春一月戊戌朔に、はじめて冠位を諸臣に与え、それぞれ位づけた。夏四月丙寅朔戊辰、皇太子はみずから十七条憲法を作った。十三年冬十月に皇太子は斑鳩宮に移った。】と訳した。

593年「元年夏四月庚午朔巳卯」は3月30日で九州の暦、この日の立太子はこれまで通り俀国の王朝交代で、この年は法興3年にあたり、この時、法興帝の弟の『隋書』「名太子為利歌彌多弗利」、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』「上宮法皇」が皇太子になって宗教上の天子法興帝に対し、昼間の政治を司る太子聖徳帝となった。

この前年の592年11月に「東漢直駒弑于天皇或本云東漢直駒東漢直磐井子也」、「駒奸嬪事顯爲大臣所殺」と大臣の命令で泊瀬部天皇を殺害して殺されたとあり、おそらく、実際は、馬子の娘なら早くとも生まれが590年頃と思われ、橘豐日の娘と思われ、馬子は三代存在し、磐余に住む橘豐日、豊浦に住む馬子、『日本書紀』推古34年「飛鳥河之傍乃庭中開小池仍興小嶋於池中故時人曰嶋大臣」と飛鳥岡本の嶋である。

そして、東漢直駒が火中君の孫法興帝の長男で法興元年に太子になったが、592年2代目の東漢直駒の義兄弟の馬子に殺害され、法興帝の弟が太子聖徳帝となり、泊瀬部天皇を殺害したのは法興帝の子の可能性が高く、645年「立中大兄爲皇太子」まで立太子が無く、天命開別天智天皇の立太子は664年天萬豊日孝徳天皇で、645年に太子なら、668年まで即位しないのは理に適わず、664年では天智が16歳で即位適齢年齢の20歳まで待って668年に即位したのなら、よく理解できる。

すなわち、645年に俀王の上宮法皇の子と思われる漢王の妹の大俣王と稲目の孫の彦人との子の茅渟王が漢王の皇太子になり、子の筑紫君天萬豊日・薩夜麻が継ぎ、薩野馬が百濟や唐にいる間、茅渟王妃の吉備姫・吉備嶋高祖母が王を担ったと思われ、664年「天命開別天皇三年・・・筑紫君薩夜麻」と「夏五月戊申朔甲子・・・郭務悰等進表函」と郭務悰と共に帰国して、天命開別がクーデタで「大紫蘇我連大臣薨」入鹿と蘇我蝦夷を殺害し、天萬豊日が即位したようだ。


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