2020年3月13日金曜日

最終兵器の目 顯宗天皇2

  『日本書紀』慶長版は
白髮天皇三年春正月天皇隨億計王到攝津國使臣連持節以王青?()車迎入宮中夏四月立億計王爲皇太子立天皇爲皇子五年春正月白髮天皇崩是月皇太子億計王與天皇讓位久而不處由是天皇姉飯豊青皇女於忍海角刺宮臨朝秉政自稱忍海飯豊青尊當世詞人歌曰野麻登陛伱瀰我保指母能婆於尸農瀰能莒能?()哿紀儺屢都奴娑之能瀰野冬十一月飯豊青尊崩葬葛城埴曰丘陵十二月百官大會皇太子億計取天皇之璽置之天皇之坐再拜從諸臣之位曰此天皇之位有功者可以處之著貴蒙迎皆弟之謀也以天下讓天皇天皇顧讓以弟莫敢即位又奉白髮天皇先欲傳兄立皇太子前後固辭曰日月出矣而爝火不息其於光也不亦難矣時雨降矣而猶浸灌不亦勞乎所貴爲人弟者奉兄謀逃脱難照德解紛而無處也即有處者非弟恭之義弘計不忍處也兄友弟恭不易之典聞諸古老安自獨輕皇太子億計曰白髮天皇以吾兄之故舉天下之事而先属我我其羞之惟大王首建利遁聞之者歎息彰顯帝孫見之者殞涕憫憫搢紳忻荷戴天之慶哀哀黔首悅逢履地之恩是以克固四維永隆萬業功隣造物清猷映世超哉邈矣粤無得而稱雖是曰兄豈先處乎非功而據咎悔必至吾聞天皇不可以久曠天命不可以謙拒大王以社稷爲計百姓爲心發言慷慨至于流涕天皇於是知終不處不逆兄意乃聽而不即御坐世嘉其能以實讓曰宜哉兄弟怡怡天下歸德篤於親族則民興仁
【白髮天皇の三年の春正月に、天皇は、億計王と、摂津国に着いた。臣・連に徴の刀を持たせて、王の青蓋車で、宮中に迎へ入れられた。夏四月に、億計王を皇太子にし、天皇を皇子とした。五年の春正月に、白髮天皇が崩じた。この月に、皇太子の億計王と天皇とが、位を讓りあって、長く空位だった。そのため、天皇の姉の飯豊の青の皇女が、忍海の角刺の宮で、朝廷に臨んでまつりごとを司って、自ら忍海の飯豊の青の尊と名のった。当時の歌人が歌った()。冬十一月に、飯豊の青の尊が崩じた。葛城の埴口の丘の陵に葬った。十二月に、多くの官僚が集まった。皇太子の億計は、天子の璽を取って、天皇の坐に置いた。2度礼拝して諸臣の位置に立って「この天子の位には、功績があった人物がいなければならない。高貴であることを明らかにして迎えられたのは、みな弟の行ったことだ」と言って天下を天皇に讓った。天皇位は、経緯をふりかえって譲るべきは弟だと、どうしても皇位に就かなかった。また白髮天皇が、先に兄に継がせようと思って、皇太子に立てたのを受けて、先だ後だと互いに固辞して「日月が昇って、松明を消さないと邪魔な光だ。時雨が降って、それでも水を潅ぐのは意味が無い。ひとが弟を尊ぶのは兄に仕えて難から逃れようと、そこに居ない兄の徳でごたごたを解決するからだ。すなわち、そこに居て何もしないのは、弟の敬意をもった礼儀とは言えない。弘計が、そこに居るのは忍びない。兄が弟と助け合い、弟を恭うのは、ずっと変わらない決まり事と古老に聞いた。どうして私一人が軽んじることが出来ましょうか」と言った。皇太子の億計が「白髮天皇は、私が兄だったから、天下の事業を挙げて、まず私に任せた。私は、それ羞じている。思うに大王は、最初から逃れるために考えた。聞いた者はみな嘆いた。帝の孫だと表明する時、見る者は鼻水を垂らして泣いた。憂えた高官は、喜んで天からのたまものと戴き担ぐ。 心をいためる庶民は初めて喜んで地を踏むようなありがたい思いに遭遇した。それでよく四方を固めて、長く後世まで栄えるだろう。功績は万物を生み、清らかな思いは世に反映されて今を遥かに越え、とても言葉にできない。このように、私が兄といっても、どうして先にここに座れようか。功績に頼ることが出来ないのに皇位に就けば、きっと後悔するだろう。私は「天皇は長く空位が有ってはならない。天命を譲って断ってはならない。大王は、国家の事を考え、百姓のことを思え」と聞いた。言葉に出して激しくいきどおり嘆いて、感極まった。天皇は、それで、絶対皇位に就かないと言っていたが、兄の意に逆ってはならないと考え、それで承諾した。しかし、皇位にすぐには就かなかった。世の人は、真心を持って譲り合っているのを美しく思い「とても喜ばしい事だ、兄弟で打ちとけて喜び、天下に徳を戻した。親族がまじめで行き届いていると、民の間に思いやりの心を引き起こす」と言った。】とある。
顕宗天皇が皇位を継承したのが実際に起きた時が498から9年で、この冬11月の飯豊青皇女(天皇)が死亡した時で、『梁書』に扶桑国の王が「名國王爲乙祁」と梁が建国された502年に、扶桑国の王が乙祁だったと記述していることから、可能性が高いと清寧天皇で記述した。
この、顕宗天皇紀に「角刺宮臨朝秉政」と角刺宮で皇位に就いていたことを記述し、「億計取天皇之璽置」それまで持っていなかった璽を受け取って天皇の坐に置いた、すなわち、政権交代・王朝交代が起こったことを示している。
実際の兄弟なら政権交代では無いので、義姉もしくは飯豊青皇女の夫が天皇だったことを示し、今まで見てきたように、義兄弟も従弟も兄弟と見做す系図を記述しているため、本当の兄弟姉妹はよくわからない。
457年に市邊押磐皇子が崩じたのなら、すでに42年経過していて、顕宗天皇が32歳では合致しなくなり、1世代後若しくは雄略天皇が後ろになってしまうが、『三国史記』や『宋書』との齟齬は無かったので、雄略天皇元年は457年で良さそうだ。
従って、飯豊青皇女と顕宗天皇は従弟で、飯豊青皇女の母が皇位継承権のある姫だったと考えるのが妥当で、飯豊青皇女の母の葛城襲津彦の娘の磐之媛も葛城襲津彦の夫人もその母も皇位継承権を持つ媛だったと考えられる。
田中卓によると『紀氏家牒』に葛城国造荒田彦(荒田に住む王)の娘の葛比売(葛城の姫)が母親とされ、武内宿禰と思われる応神天皇の皇后仲媛の娘が荒田皇女と記述されて荒田に住む皇女と考えられ、この荒田皇女が葛比売の可能性があり、尾綱根妹尾綱真若刀婢→金田屋野姫→仲媛→荒田皇女→磐之媛(磐に住む媛)→黒媛(子が磐坂や押磐と呼ばれ磐と関係あり)→飯豊青皇女と尾張氏天皇の血統が続いたと考えられる。

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