2022年12月12日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』武烈天皇類書

  『古事記』前川茂右衛門寛永版は続けて「小長谷若鷦鷯()()坐長谷之列木宮治天下捌歳也此天皇无太子故爲御子代定小長谷部也御陵在片(伊山)崗之石坏岡()也天皇既崩」とあり、訳は略した。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版『神皇本紀』は続けて「諱小泊瀨稚鷦鷯尊者億計天皇太子也母曰春日大娘雄計天皇七年立爲皇太子天皇長好制理法令分明日(?)坐朝幽狂必達断獄得情又顯造諸惡不修一善几諸酷刑無不親堅國内居人咸皆震怖矣十一年八月億計天皇崩元年冬十一月戊寅朔戊子皇太子尊命有司設壇場於泊瀨列城宮陟天皇位遂定為都謂列城宮二年巳卯春三月丁丑朔戊寅春日娘女立為皇后物部麻佐良連公為大連八年冬十二月壬辰朔巳亥天皇崩于列城宮天皇無胤」、【諱は小泊瀬稚鷦鷯。億計天皇の皇太子で、母を春日大娘という。億計天皇七年に、皇太子になった。天皇は長じて法令を取り決め、日暮れまで裁くのを好み、朝から暗くなるまで朝廷に居て、調べて罪を裁くまで熱中し、一つの善政も無く、諸悪が蔓延しても、およそ、さまざまな極刑でないと興味を示さず、根国の人民はみな震え恐れた。十一年八月に、億計が崩じた。元年冬十一月戊寅朔戊子、皇太子は司に命じて祭壇を泊瀬列城宮に設けて、即位し、都にして、列城宮といった。二年己卯の春三月丁丑朔戊寅、春日娘女を皇后とし、物部麻佐良を大連とした。八年の冬十二月壬辰朔巳亥に、天皇は列城宮で崩じ、子はない。】と訳した。

長谷列木宮天皇には皇太子が記述されていないが、これまで示したように、天皇が即位できるのは、即位に足るバックボーン無くしては即位出来ないので、天皇は皇后の住む場所に婿入りして、皇后の兄弟や、皇后の子、皇后の兄弟の子が皇位を継承することで国を安定的に統治することができた。

すなわち、長谷列木宮天皇は母の前皇后春日大娘の兄弟の娘と思われる春日娘女を皇后にしていて、後継者は春日娘女の兄弟が皇太子候補で、『日本書紀』「春日大娘皇女大泊瀬天皇娶和珥臣深目之女童女君所生」とあるように、童女君の兄弟の子達、和珥臣深目の孫が皇太子になったと思われる。

継体24年に「及乎繼體之君欲立中興之功者・・・降小泊瀬天皇之王天下・・・朕承帝業於今廿四年」と継体帝は小泊瀬天皇が天下を治めていた時に即位して中興の天皇となって24年経ったと、すなわち、継体元年から24年、540年にこの宣言を行っている。

すなわち、大倭國勾金橋朝と桧隈廬入野朝は継体朝と別王朝で、大倭國勾金橋朝は長谷列木宮朝の継承王朝と考えられ、『古事記』は長谷列木朝も大倭國勾金橋朝も皇后を記述せず、『日本書紀』に記述される「億計天皇女春日山田皇女爲皇后・・・立許勢男人大臣女紗手媛紗手媛弟香香有媛物部木蓮子大蓮女宅媛」がこの2王朝と稲目の皇后と私は考えた。

継体天皇即位時、武烈天皇の後継者がいないと記述しているが、和珥臣深目の孫が皇位に就くのが当然で、それなのに、後継者を探すのは非論理的で、この後継者探しは、「廿五年歳次辛亥崩者・・・日本天皇及太子皇子倶崩薨」によって、後継者が死滅したので、継体天皇と対立する麁鹿火が、名目上の天皇を連れて来たと考えるほうが論理的だ。

継体25年の天皇の死亡は、継体23年の「巨勢男人大臣薨」が継体25年の2年前ではなく、継体28年の2年前の継体26年の死亡で、長谷列木宮天皇の後継の倭彦を推薦したが、麁鹿火に敗れて男人が死んだと考えられる。

麁鹿火の祖母異(?)媛は御太君の祖、おそらく、中興の祖の叔父目連・継体天皇・彦太が御太(みおう)・三国大国の新しい創始者()と思われ、異(?)媛は伊莒弗の子の甕栗宮の目大連がよく合致しそうで、玉穗宮継体天皇も磐余で磐余の時の物部氏の名が目連と考えられ、麁鹿火と目連が皇位を争ったと考えられる。

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