2017年6月5日月曜日

最終兵器のミサ 臣と連

 日本書紀で蘇我氏は自分が権力者であるのに自分を臣下の様に書いていて、蘇我氏より前の王朝も同じような書き方をしているけれど、古事記では蘇我氏の地位の大臣は武内宿祢と大前小前宿祢のみで大臣と同位の大連も継体天皇時に出現するだけで、どうやら最後に日本書紀を書いた人物が蘇我氏の書いた舒明天皇までの日本書紀に手を加えて蘇我天皇を大臣と書き換えたとしか思えず、そのあとで元明天皇が系図を書き換えさせたとゆうことだろう。
そして、蘇我氏が書いた日本書紀には、前天皇で舒明天皇元年629年の前年628年に物部守屋大連を倒して璽を移動させていることから、物部天皇を大連と書き換えたことがうかがえて、ということは、大臣大連は天皇だったといえる。
だから、前回書いた璽の移動にあわせると、持統(中臣←天)・孝徳(天←蘇我)・舒明(蘇我←物部)・推古(物部守屋←物部麁鹿火・大伴金村)・継体( 物部麁鹿火・大伴金村←許勢)・顕宗( 許勢←平群)・清寧( 平群←葛城)・允恭( 葛城←物部)と権力の移動を考えることができる。
そして、蘇我・ 許勢・平群・葛城はすべて武内宿禰爲大臣の家系で、また、 物部守屋と物部麁鹿火の系図は同じ十四世の孫でありながら時代が異なっていて別系統のようで麁鹿火が許勢大臣を裏切って日本の支配者となって隋書で言う秦王国と呼ばれることになった。
そして、古事記に出てくる大前小前宿祢大臣と建内宿祢大臣は古事記を書いた王朝の時に天皇ではなかったことが解り、 また、大連を書いていないので、大連は古事記を書いた王朝が奪った側の天皇だということが見えてくる。
日本書紀で最初に出てくる臣は大伴氏の日臣だけれど、それを授けたのは大物主で部下に臣を名付けることによって大物主は大臣となり、違う系列の王が連で土師氏だったのが多くの配下の王を連と呼んだときに自らは大連となった。この構図は三国志などで30国ではヒコなど多くの称号が有って王と呼ぶのは邪馬台国だけだったけれど隋書では大王となったことと同じで、古事記では開化天皇の時に多くの人物に王を授けているので、古事記なのだからこれらの王は臣で大臣の就任があって、丁度、京都郡など九州東部・南部の倭国以外を支配した時期にあたる。
   『日本書紀』
神話
「天穂日命 是出雲臣 土師連等祖也 次天津彦根命 是凡川内直 山代直等祖也」
神武天皇即位前紀戊午年六月丁巳 「大伴氏之遠祖日臣命帥大來目督將元戎」
垂仁天皇二六年八月庚辰 「天皇勅物部十千根大連曰 屡遣使者於出雲國 雖検校其國之神寶」
成務天皇三年正月己卯 「以武内宿禰爲大臣也」

ということは、最初に出雲に天降った天穂日が臣・連の官位を制定した初代の日本の王で、土師氏が東鯷国の国王で、紀元前4年には天皇だった人物を大連と書き換えているのだから物部十千根大連が天皇になっていて113年に物部氏に対抗する勢力に武内宿禰がなって、武内の同族の葛城氏が物部氏から政権を奪って、 葛城氏の同族許勢氏から物部・大伴連合が政権奪取、さらに629年に物部氏から蘇我氏が政権奪取した。

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