日本書紀には何人かの天皇に璽の移動が有ったと書かれているけれど、皇位継承は必ず璽の継承がなければそれこそ天皇の「しるし」ではなくなってしまうのに、皇位継承時に必ず皇后の扱いや葬送記事や宮の記事が書かれているのに一番の重要な儀式を多くの天皇は無視しているのは異様で、実は璽の移動はこの時に王朝の移動が有ったと考える方が妥当な考えじゃないだろうか。
璽の移動は『先代旧事本紀』に天押穂耳尊から饒速日尊→宇摩志麻治→神武天皇に渡ったと書かれて、その後、日本書紀で允恭元年→清寧即位前紀→顕宗即位前紀→継体即位前紀→推古即位前紀→舒明元年→孝徳即位前→持統四年と璽が移動していると書いている。
これらの天皇で思い出すのが、履中天皇(古事記2代のズレで允恭)の「諸國置國史・四方志」→雄略天皇(古事記2代ずれて顕宗)の「日本舊記」→欽明天皇の「帝王本紀」→推古天皇の「天皇記及國記・臣連伴造國造百八十部并公民等本記」→皇極天皇の「悉燒天皇記・國記、燒國記而奉献中大兄」→斉明天皇の「日本世記」→天智天皇の「日本世記」→天武天皇の「帝妃・上古諸事」→元明天皇の「古事記・日本書紀」となにか関係がありそうで、以前の回ではこれらの史書を漢文の調子も違って新しい王朝が書いたと言ったけれど、この璽の移動が丁度王朝の移動を示している。
『先代旧事本紀』
「正哉吾勝勝速日天押穂耳尊・・・天神御祖詔授天璽瑞寶十種謂贏都鏡一邊都鏡一八握劍・・・天祖以天璽瑞寶十種授饒速日尊・・・宇摩志麻治命日汝先考饒速日尊自天授來天璽瑞寶・・・天皇定功行賞詔宇摩志麻治命日汝勲功矣念惟大功也公之忠節焉思惟至忠矣是以先授神靈剱・・・」
『日本書紀』
允恭天皇元年十二月
「爰大中姫命仰歡 則謂群卿曰 皇子將聽羣臣之請 今當上天皇璽符 於是羣臣大喜 即日捧天皇之璽符」
清寧天皇即位前紀 「冬十月己巳朔壬申 大伴室屋大連 率臣連等 奉璽於皇太子」
顕宗天皇即位前紀
「十二月 百官大會 皇太子億計 取天子之璽 置之天皇之坐 再拜從諸臣之位曰 此天子之位 有功者可以處之 著貴蒙迎 皆弟之謀也 以天下讓天皇」
継体天皇元年二月甲午 「二月甲午 大伴金村大連 乃跪上天子鏡劔璽符再拜・・・乃受璽符」
推古天皇即位前紀 「皇后辭譲之 百寮上表勸進至于三 乃從之 因以奉天皇璽印」
舒明天皇元年正月丙午
「大臣及群卿共以天皇之璽印獻於田村皇子 則辭之曰 宗廟重事矣 寡人不賢 何敢當乎」
孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年六月庚戌 「天豐財重日足姫天皇授璽綬禪位」
持統四年正月戊寅朔
「神祗伯中臣大嶋朝臣讀天神壽詞 畢忌部宿禰色夫知奉上神璽劔鏡於皇后 皇后即天皇位」
持統天皇の4年は平城京4年713年で古事記が712年に初代天皇のお祝いを書いているし、孝徳即位前期の文は蘇我氏滅亡の時の話で、舒明天皇元年の629年は崇峻天皇前年に物部守屋を滅亡させて、継体天皇の時日本の天皇や皇子が死んだと書かれ古事記の2代前まで書かれていたので武烈天皇で古事記の巨勢王朝が滅んだ。
ということは、ほかの推古天皇の前すなわち2代ズレて用明天皇の時に物部守屋が大伴氏を滅ぼし、清寧天皇の時志毘臣を、雄略天皇は都夫良意富美を、允恭天皇の時も大前小前宿祢大臣を、仁徳天皇の時も履中天皇の時に墨江中王を滅ぼしていて、政権が滅んだと考えるべきで、古事記を書いた仁賢天皇・日本書紀の武烈天皇の王朝も早くても仁徳天皇から奪った王朝ということで、古事記や日本書紀の神武天皇は璽を得ていないけれど、先代旧事本紀の神武天皇は璽を受け取っていて、先代旧事本紀は一番古い王朝を書いている。
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