古事記や日本書紀の神話は出雲や伊都で書き始められ、編年体の記事は漢が建元した時代から書き始められたと証明したけど、最初に史書としてまとめたのはいつなのかというと、書き方自体は古事記の方が古そうだけど内容を見てみると日本書紀の方が古いことが解り、神武天皇の東侵記事で出発点が日本書紀は速吸之門→菟狹→筑紫岡水門→安藝國埃宮→吉備國高嶋宮で古事記は日向高千穗宮→豐國宇沙足一騰宮→竺紫岡田宮→阿岐國多祁理宮→吉備高島宮→速吸門と速吸門の場所が違うけれども日向高千穗宮が加わっていて、神話も5柱の神が追加されていて、日本書紀の少なくとも神武天皇まで出来上がった状態で古事記が書き始められていることが解る。
そして、古事記の応神天皇の時に百済から千字文を取り寄せてすなわち字の練習のための書物を得て初めて文字を習っていることから、応神天皇の時代以降にしか書きようがないとゆうことで、応神天皇の時代までは日本書紀を最初に書いた王朝(諸國置國史。記言事達四方志)の資料を手に入れたことが解り、そして、紀伝体で書き大国主の記事を多く持つことから出雲の史書の影響のもとで書いて、神武天皇が大物主の家系の奥さんをもらっていることから、大物主を主神としていて、豊秋津すなわち豊国(現在の広島県で後代に大分県に変わった)の安芸が出身で亦の名から豊国の御毛沼が初代の天皇の王朝、その王朝が古事記を書き始めたと解る。
『古事記』
神代
「若御毛沼命 亦名豊御毛沼命 亦名神倭伊波礼毘古命」
応神記
「即論語十巻・千字文一巻 并十一巻 付是人即貢進」
そして、方向が目的地より逆に向かっていることから、奈良に向かうのに正しいルートが始まる安芸が東侵の始まりで奈良で神武天皇が大物主の家系の奥さんをもらうということはご主人が三輪神から土地を奪っている大物主で侵攻したのは大物主だということが解り、出発点から古事記を書いた王朝の建国場所は日向か宇佐、日本書紀を書いた国の建国した場所は菟狹か筑紫と考えられるけれど、話の内容は近畿の話ばかりということは、やはり、古事記も日本書紀も日本の歴史で倭国の歴史ではない。
日本書紀が菟狹か筑紫の建国ということは日本の時間軸も菟狹か筑紫の王朝の時間軸を使ったということで、すなわち、日本書紀の時間軸は菟狹か筑紫の王朝の宮の移動が中国の元号とも比較できる日本共通の暦だということで、矛盾に満ちた天皇の系図で有るはずがない。
そして、古事記は顕宗天皇で細かい記述がなくなるので、古事記をかいた王朝が終焉を迎えたようで、その後に元明天皇の系図をくっつけたのが現在に残っている古事記で、日本書紀も舒明天皇まで書いた王朝(天皇記及國記)と皇極天皇から書いた王朝(日本世記)が違うと考えるべきで、古事記の顕宗天皇は日本書紀では2代ずれて武烈天皇で継体天皇の記事を書いた王朝(日本舊記・帝妃)が編年体の資料を持っていて書き始めたと考えないといけない。
『日本書紀』
履中天皇四年癸卯八月戊戌 「始之於諸國置國史 記言事達四方志」
雄略天皇二一年丁巳三月 「盖鹵王母弟也 日本舊記云 以久麻那利賜末多王 盖是誤也」
宣化天皇四年己未十一月丙寅 「皇后崩年傳記無載 孺子者盖未成人而葬歟」
欽明天皇二年三月 「其五曰泊瀬部皇子 帝王本紀多有古字 撰集之人 屡經遷易 後人習讀」
推古天皇二八年是歳 「皇太子 嶋大臣共議之録天皇記及國記 臣連伴造國造百八十部并公民等本記」
皇極天皇四年六月己酉 「悉燒天皇記。國記。珍寶。船史惠尺即疾取所燒國記而奉献中大兄」
斉明天皇六年七月乙卯 「高麗沙門道顯日本世記曰 七月云云」
天智天皇八年十月辛酉
「日本世記曰 内大臣春秋五十薨于私第 廼殯於山南 天何不淑 不憖遣耆 鳴呼哀哉」
天武天皇十年三月丙戌 「大山下平群臣子首令記定帝妃及上古諸事」
森博達は雄略天皇から崇峻天皇までと皇極天皇から天智天皇は中国人が書いたと他の朝鮮の影響を受けた部分と分けているけれど、書いた人物ではなくて書いた王朝が違うのであって、同時に手分けして書いたのならそれこそ統一された史書などできなくて間違いだらけになる。
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