皇太子が天皇と同格すなわち天皇2人制と書いてきたけれど、その証拠が多利思北孤で夜が明けたら弟に政務を任せると太子利歌彌多弗利に、弟に任せると書いていて(男弟王の名前が解らないはずがなく、弟は太子利歌彌多弗利)弟と昼夜を交代する大王が存在して、端正という年号が推古天皇の端正と崇峻天皇の端正があり、天皇が変わって年号が変わらないとゆうことは無いし、後代文献のため天皇や干支を変更していると思われるけれど2代天皇がずれた用明天皇と敏達天皇の端正があって端正1年2年は本来敏達天皇だけど、文献自体が日本書紀に影響されていると思われて、2人の天皇の隋書と符合する。
『隋書』
「俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利」
『万福寺 子持御前縁起』
(中略)「推古天皇御宇端正元年癸丑十一月十三日午の刻」
『黒沼大明神縁起』
「崇峻天皇御時端正二庚戌年六月十五日黒沼大明神ト申」
また、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』に法興の元号を使用しているけれど、31年の間には他の多くの年号があって並列しているけれど、1つの王朝に2つの年号は有り得ず、多利思北孤が煬帝のように自分も天子だと言っているのだから法興帝とよんだとしても間違いとは思えないし、もう一人の上宮法皇が聖徳帝と呼ばれていたかもしれない。
『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』
「法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆。干食王后仍以労疾」
そして、弟に委ねるということから皇太弟ということで日本書紀の立太子記事が必要なのだけれどその記事が書いてあって、しかも日本書紀でも「上宮」太子で「上宮」法皇と名前が同じで無関係とは言えないし、とゆうことは、立太子のない時期は長男の皇太子が存在して、上宮太子死後は用明天皇の長男の彦人皇子が皇太子になって用明天皇末年に宮を遷した。
その証拠が623年の日付の『隅田八幡神社人物画像鏡』には(押坂の宮の彦)日十(人)大王の男弟王に百済の武寧王から鏡を送られていて、上宮太子死後2年目の金石文でタリシヒコ大王33年にヒコヒト大王がいる。
『日本書紀』
推古天皇元年四月己卯
「立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子・・・父天皇愛之令居宮南上殿 故稱其名謂上宮廐戸豐聰耳太子」
用明天皇二年四月丙午
「遂作太子彦人皇子像與竹田皇子像厭之 俄而知事難濟 歸附彦人皇子於水派宮」
『隅田八幡神社人物画像鏡』
「癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻」
その後、立太子は有間皇子が殺害されたあとに即位した孝徳天皇までなくその間の皇位継承は女帝も存在するので夫婦間や長男が皇位を継承してきたのであって、そのような決まり通りでなければ天皇の継承が朝鮮や日本の標準時計にはなれないし、中国が時計になれなかったのは長期に続く王朝が無かったからで、日本の天皇家は日本の王者ではなかったけれど一貫して王朝をつないできたために標準時計とされた。
『日本書紀』
皇極天皇四年六月庚戌
「譲位於輕皇子 立中大兄爲皇太子」
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