2017年5月8日月曜日

最終兵器のミサ 飛鳥浄御原京

 天武天皇が即位した宮飛鳥浄御原宮は672年に遷ったと日本書紀に書いてあるけれど、この時は2代のズレで孝徳天皇の時代で、孝徳天皇は丁度、大化年号が5年、白雉年号が5年と別れていて、672年は大化5年と宮が変わるにはバッチリの切り替え時になり、前年には大友皇子が太政大臣になっている。
  『日本書紀』
天智天皇一〇年正月癸卯 「大錦上中臣金連命宣神事 是日 以大友皇子拜太政大臣」
天武天皇元年十一月丁酉  「是歳、營宮室於岡本宮南 即冬遷以居焉 是謂飛鳥淨御原宮」
 
この、太政大臣というのは後に草壁皇子が皇太子の時に高市皇子が太政大臣で天皇・皇太子に次ぐNo3がなる地位のようで、671年には皇太子(ただしこの記事が694年の可能性もあるけれどもともと長男は12歳ぐらいになれば皇太子だ)がいて大友皇子はNo3以下だ。
  『日本書紀』 
天智天皇一〇年五月辛丑 「天皇御西小殿 皇太子 群臣侍宴」

そして、668年から690年までなぜか外交使節の饗応を3分の1近く筑紫で行っていて667年以前には筑紫の饗応は2回となっていて、饗応は王様がいる場所で行うのが普通で、この時期には天皇が九州にいたことが解るし、九州に首都に準じる副都があると、場所は書かないけれど、書いてあるということは首都が大津にあったけれど首都機能が筑紫に有ったと思わなければ辻褄が合わないし、大宰府にはこの時期藤原京と同程度の都が出土している。
すなわち、少なくとも671年から694年までは飛鳥浄御原が首都と書いているけれど途中まで筑紫に首都が無く690以降は筑紫と書かないとゆうことは、飛鳥浄御原が筑紫に有って首都機能を持っていてそしてそこには唐の出先機関都督府が有ったということで、実際、出土した遺物の文を見ても704年までは飛鳥浄御原しか出てこなくて、しかも、前後が付いているけど持統と読まなくては筋が通らない文はないことから、前後は695年か701年が分岐点かと思っていて、さらに、都督府が有ったと書いたけど、『那須国造碑』文に評督と書いて都督の下部組織のような名前と中国年号を伴って700年に書かれていてこれらを裏付けている。
  『那須国造碑』
「永昌元年己丑四月飛鳥浄御原大宮那須国造追大壹那須直韋提評督被賜歳次庚子年正月」

681年長男の皇太子は引きずり降ろされて天渟中原瀛眞人と臣下にされておそらく草壁皇子ではなく大友皇子が皇太子になって、681年から5年間の宮が変わるまで摂政を置いたとされるけれど、おそらく天智天皇が首都以外に常駐して不在のための摂政でもしかしたら天皇が天武天皇とともに郭務悰に幽閉されていたかもしれず、以前郭務が天智天皇に仏像を送ったと書いたとおり695年まで郭務が日本に駐留していて郭務お気に入りの大友皇子を皇太子にしたと思われ、天武天皇が大友皇子から政権を奪ったために天武天皇は防衛のため城を築いたりして、吉野へ何度も行き、文武天皇クーデタの時に粟田真人に唐と調整した恩賞で特進できたようだ。
  『日本書紀』
天武天皇十年二月甲子 「是日 立草壁皇子尊爲皇太子 因以令攝萬機」

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