『粟原寺鑪盤銘』という遺物に文が彫ってあるのだけれど、715年に中臣大嶋の子の額田というお姫様が、元明天皇のご主人の寺を建立したと書いてあるんだけど、694年に作り始めて715年までかかって、どうして文武天皇や元明天皇がすぐに作れなかったのだろう、すくなくとも701年には子が天皇に即位している。
ところが、この銘板には藤原不比等でもなく中臣大嶋が建立して、本来なら文武天皇か元明天皇の指示と書くべきなのに一言もふれないで藤原氏より下の地位の人物が建立しているのは異様で、実際は大嶋が日並の親で額田が日並の妻元明天皇か娘の元正天皇で、日本書紀を書く前の文なので全く変更されていないと思え、これらの天皇は本来天皇の位の名前を持っていて、701年に生まれた聖武天皇が天璽国押開豊桜彦と天皇らしい名前をもつことになった。
『粟原寺鑪盤銘』
「此粟原寺者 仲臣朝臣大嶋 惶惶誓願 奉為大倭国浄御原宮天下天皇時 日並御宇東宮 故造伽檻之 爾故比賣朝臣額田 以甲午年始 至和銅八年」
元明天皇が中臣氏だということが解ったけれど、元明天皇の家系の活躍が欽明天皇からのようで在位年が書かれている古事記から解り、欽明天皇の時すなわち2代ずれて用明天皇のときに蘇我氏と姻戚になって、欽明天皇13年、2代ずれて用明天皇の13年に仏教を拒否、推古天皇もズレて天智天皇の時代の、おそらく大嶋の妻が額田部と呼ばれたかもしれず、天武天皇時代は日並と父大嶋の時代と考えられ、日並の妻が額田姫、娘が十市で鑪盤銘の額田と無関係とは思えない。
『日本書紀』
欽明天皇十三年十月
「物部大連尾輿 中臣連鎌子同奏曰 我國家之王天下者 恒以天地社稷百八十神」
推古天皇即位前紀
「橘豊日天皇同母妹也 幼曰額田部皇女 姿色端麗 進止軌制」
天武天皇二年二月癸未
「天皇初娶鏡王女額田姫王 生十市皇女」
『古事記』
「娶宗賀之稲目宿祢大臣之女 岐多斯比売、生御子 橘之豊日命」
とにかく、天皇名やその妃名・皇子名、特に日本書紀と古事記が共通する名は元明天皇の系図の可能性が高いことを頭に入れて考えないといけない。
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