2017年5月6日土曜日

最終兵器のミサ 天豐財天皇

 天豐財天皇が664年天萬豐日天皇の急死によって天皇位に就いた事を示したけれど、この天皇はいろんなところに足跡を残していて、野中寺金銅弥勒菩薩台座框に666年にこの像を中宮天皇の病気治癒を祈願し造ったと書いてあり、730年に書かれたものだから日本書紀にあわせて維清原宮馭宇天皇と書かれているけれど、680年に天智天皇の前の天皇・大上天皇の中宮のために薬師寺を建立したと書かれていて、 法隆寺金堂薬師如来像光背銘も通説は607年に奉納したとあてられているけれど、586年に用明天皇は即位したばかりで温情で皇位を譲られたとは思えず、また、推古天皇の時代は大王と呼ばれて天皇でないため646年の天皇の病気治癒祈願で像を奉納したのは667年に自分の病気治癒の感謝を含めて中宮天皇と天智天皇が奉納したのだと思う。
   『野中寺金銅弥勒菩薩台座框』
丙寅年四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十
   『薬師寺 東塔擦管銘』
維清原宮馭宇 天皇即位八年庚辰之歳建子之月以 中宮不悆創此伽藍而鋪金未遂龍駕 騰仙大上天皇奉遵前緒遂
   『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』
池邊大宮治天下天皇 大御身 勞賜時歳次丙午年・・・小治田大宮治天下大王天皇及東宮聖王大命受賜而歳次丁卯年仕奉
   『日本書紀』大化元年八月癸卯 
小墾田宮御宇之世。馬子宿禰奉爲天皇造丈六繍像。

そして、天萬豐日天皇の母すなわち天豊財の母吉備姫が652年に天豊財恐らく田村皇子そしてすぐに死亡したため皇后天豊財に天皇を譲ったので皇祖母になっていたけれど655年再度天皇に復帰して658年天萬豐日に皇位を譲ったけれど、正式に皇位に就く前に皇太子となるべき有間皇子を失脚させて、田村皇子の長男で太子だった古人大兄も辞退させて吉野で隠遁生活をさせ、天智天皇を皇太子にしたけれど、おそらく鎌足の陰謀だったのだろう。
    『日本書紀』
  大化元年九月戊辰
「或本云 古人大兄 或本云 古人太子 此皇子入吉野山 故或云吉野太子 垂 此云之娜屡」
  斉明天皇元年正月甲戌
「皇祖母尊即天皇位於飛鳥板盖宮」
  斉明天皇四年十一月庚寅
「他日有間皇子與一判事謀反之時 皇子案机之脚无故自斷 其謨不止 遂被誅戮也」
  天智天皇即位前紀
「天萬豐日天皇後五年十月崩 明年皇祖母尊即天皇位」
  天智天皇三年六月
「嶋皇祖母命薨」
  斉明天皇即位前紀
「改元四年六月 讓位於天萬豐日天皇 稱天豐財重日足姫天皇 曰皇祖母尊 天萬豐日天皇後五年十月崩」

吉備姫は661年死亡して、天萬豐日天皇も664年に死亡、嶋皇祖母こと天豊財が中宮天皇として即位したことが解り、天智天皇3年の嶋皇祖母の死亡は687のことと思われて、古事記の系図に新たに追加した「天」の姓をもつ天皇の概略を明らかにした。

0 件のコメント:

コメントを投稿