2017年5月29日月曜日

最終兵器のミサ 女帝

 どうして、7・8世紀に女帝が多数現れたかというと、第一に皇位継承の不文律が有ったようで、有間皇子が謀反を起こした時19歳で成人でないとたしなめられているように、また皇太子は661年に天智天皇が16歳というように658年には13歳で皇太子になれたけれど、天皇には20歳以上でないとなれないようで、664年には天智天皇は19歳、孝徳天皇も658年にやっと20歳、古人皇子も658年に20歳と思われて、もしもっと高齢なら斉明天皇や皇極天皇が天皇を継続する意味がない。
  『日本書紀』
斉明天皇四年十一月庚寅 
「方今皇子年始十九 未及成人 可至成人而待其徳 他日有間皇子與一判事謀反之時」
舒明天皇十三年十月丙午
「殯於宮北 是謂百濟大殯 是時東宮開別皇子年十六而誄之」

そうすると、田村皇子がどうして推古天皇(吉備姫)と交代できなかったかと言えば、推古天皇は皇太子がいないと言っているように、田村皇子には皇太子となるべき兄弟が無く、古人皇子が皇太子の年齢に達していなかったからのようで、皇極天皇から斉明天皇への先祖がえりは古人皇子の皇太子になる人物が天智天皇で年齢が皇太子に達していないことが原因で孝徳天皇には有間皇子()がいたからだと思う。
   『日本書紀』 
舒明天皇即位前紀 「豊御食炊屋姫天皇廿九年 皇太子豊聰耳尊薨 而未立皇太子」

そして、茅渟王の皇位継承はというと、本来跡を継ぐべき皇太子がいたけれど、647年に皇太子の宮が焼けて人々が大驚恠したと書いていて、この時皇太子が亡くなって次の皇太子孝徳天皇は9歳のため茅渟王の後を妻の吉備姫が皇位を継承して、次の天皇候補を待って山代大兄皇子と田村皇子が争ったけれど糠手姫こと吉備嶋皇祖母の力で田村皇子が即位した。
   『日本書紀』 
大化三年十二月晦 「是日災皇太子宮時人大驚恠」

そして、押坂彦人大兄皇子からの皇位継承も皇太子茅渟王が20歳に達していなかったため糠手姫が皇位を継承したとゆうことで、押坂彦人大兄皇子も皇太子茅渟王が10代で押坂彦人大兄皇子も30代程度と考えられ、敏達天皇は用明天皇の皇子が小さいことから20代前半その弟敏達天皇も10代後半くらいで用明天皇の在位が36年なのだから押坂彦人大兄皇子は40歳程度で茅渟王15歳頃に即位している。
天皇2人制を考えると成人していないもう一人の皇太子がいるとき、誰かが支えないと2人制にならないが、その支える人物が皇祖母と思え、皇祖母が現れるのは皇極天皇の吉備嶋皇祖母、孝徳天皇の斉明天皇、天智天皇の嶋皇祖母こと豊財で、蘇我氏が実質天皇で意にそぐわない人物を排除したため皇位継承が混乱した結果なのだろう。
そのため、天皇2人制をとることができない新参者の元明天皇も元正天皇も孝謙天皇も称徳天皇も皇位継承者が若かったための皇位継承で、孝謙天皇にも称徳天皇(高野姫)にも本来皇位継承者がいたのだろうがそれが果たせず皇位が現在の天皇家に戻ったのであって、皇位継承者がいなかったらもともと天皇になれなかったはずで、皇位継承者がことごとく排除され、もちろん犯人は後の繁栄から勝者藤原氏以外にない。
権力者が暗殺するときには犯人が解っていても犯人と言えず怨霊の仕業と現在に言い伝えていて、奈良・平安時代は恐らく藤原氏の絶大な力で多くの人物が怨霊によって殺害されたのだろう。

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