2017年5月18日木曜日

最終兵器のミサ 摂政

 天智天皇は『藤氏家伝』に書かれている通り斉明天皇死後662年から摂政に就任しているけれど、摂政というのは天皇が政務を行えないから置かれる位で天智天皇がすでに即位している天皇がいるから天皇に就けない。以前書いたように孝徳天皇が658年に即位して664年死亡しているので天智天皇は皇太子で662年から孝徳天皇がいるのに天皇の役割が果たせない状況だったようで、さらに、孝徳天皇死後も前に書いたように中宮天皇が即位して668年に天智天皇に皇位を譲っている。
  『藤氏家伝』
「十四年 皇太子攝政 契闊早年 情好惟篤 義雖君臣・・・攝政六年 春三月 遷都于近江國」 

中宮天皇は665年に唐の天子と面会していて、666年は病気だったと「野中寺金銅弥勒菩薩台座框」に書いてあって中宮天皇は政務を遂行できない状態だったことが解り、そして、孝徳天皇に何が有ったのか考えると、この時は白村江で戦争を行い、日本は倭の5王の武が言っているように王自らが先頭に立って戦争を行っているように、孝徳天皇も朝鮮に赴いていたのではないか。
そして、大敗戦だったため孝徳天皇も拘束されて664年に郭務とともに水先案内人の役割を以て戦闘がおこらないようにするためのセレモニー的な帰国で、それが、 筑紫君薩野馬の記事で持統紀4年の天智天皇3年と天智天皇10年は天智天皇即位3年で同じ記事と考えられ、そうでなかったら博麻を売った金で薩夜麻達は豪遊でもしていたのだろうか。
  『日本書紀』
 天智天皇三年五月甲子
「百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務等進表函與獻物」
 天智天皇一〇年十一月癸卯
「對馬國司遣使於筑紫大宰府言 月生二日 沙門道文 筑紫君薩野馬 韓嶋勝娑婆 布師首磐 四人從唐來曰 唐國使人郭務等六百人 送使沙宅孫登等一千四百人 合二千人 乘船册七隻倶泊於比智嶋 相謂之曰 今吾輩人船數衆 忽然到彼恐彼防人驚駭射戰 乃遣道文等豫稍披陳來朝之意」
 持統四年十月乙丑
「天命開別天皇三年 土師連富杼 氷連老 筑紫君薩夜麻 弓削連元寶兒四人 思欲奏聞唐人所計 縁無衣粮 憂不能達 於是 博麻謂土師富杼等曰 我欲共汝還向本朝 縁無衣粮 倶不能去 願賣我身以充衣食」 

そのため、664年5月の郭務の日本到着記事が無く12月の帰国記事があり、帰国時に中宮天皇を連れて訪中して中国の天子に面会して665年9月に帰国し、天智4年に郭務悰が来日して天武元年まで帰国が無く日本往来とも合致し、ている。
  『日本書紀』
 天智天皇三年五月甲子
「百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務等進表函與獻物」
 天智天皇三年十二月乙酉
「郭務等罷歸」
 天智天皇四年九月壬辰
「唐國遣朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高等」
 天武天皇元年五月庚申
「郭務等罷歸」
  『旧唐書 仁軌伝』
「麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅」

すなわち、女帝も政務が行える立場にあれば摂政を置くことが無く、推古天皇に摂政が必要なわけでもなかったし、神功皇后が摂政に就いたのは応神天皇が3歳の幼児だったからなのだけれど、斉明天皇と孝徳天皇と皇太子の3人の統治の理由は太子が13歳と若かったため後見人が必要だったのが皇祖母なのか。
  『日本書紀』
 舒明天皇十三年十月丙午
「殯於宮北 是謂百濟大殯 是時東宮開別皇子年十六而誄之」

0 件のコメント:

コメントを投稿