日本書紀どおりに読み進めると中臣鎌足の扱いが不思議でならないのだけど、というのも、鎌足は614年に生まれて、乙巳の変が645年31歳で、乙巳の変の恩賞が9年もあとの654年40歳でいかにも間が抜けていて、ただし、645年に大錦冠を授けたと書いているけれど大錦冠は647年に制定されていて、しかも、654年には大綿冠がなくて664年に大錦冠が復活して、冠を授けることが孝徳天皇の前紀に書いてあるから移動する可能性があるけれど、『藤氏家伝』には孝徳天皇が亡くなった白鳳5年に高祖母が即位して皇太子に政務を委ねて紫冠から大紫冠に遷し、爵を進め功として、五千戸を増封されたと書いているけれど年号が日本書紀の白雉と違って白鳳で、647年以前の紫冠は臣下には与えられなかったため日本書紀は大綿冠としたのだろうか。
『日本書紀』
孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年六月庚戌
「以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣。増封若于戸云云。」
白雉五年正月壬子
「以紫冠授中臣鎌足連。増封若干戸。」
『藤氏家伝』
「白鳳五年 秋八月 其大綿冠内臣中臣連 功侔建内宿禰 位未允民之望 超拝紫冠
増封八千戸 俄而天萬豐日天皇 已厭萬機 登遐白雲 皇祖母尊 俯從物願 再應寶暦
悉以庶務 委皇太子 皇太子・・・ 故遷大紫冠 進爵爲公 増封五千戸 前後并凡一萬五千
戸 ・・・
十二年 冬十月 天皇幸于難波宮 即隨福信所乞之意 思幸筑紫 將遣救軍 初備軍器
十三年 春正月 御船西征 始就海路 ・・・・
十四年 皇太子攝政 契闊早年・・・」
白雉と白鳳の違いの原因は斉明天皇の宮12・13・14年の資料があったためと考えるべきで、日本書紀の斉明天皇には7年までしかなく白雉も12年がなく白鳳ならあるため、白鳳4年を日本書紀にあわせて白雉5年として舒明天皇の宮12・13・14年の唐に対する対応をその後ろに配したと思われて、舒明天皇の宮なら13年まであり、2代ずれているので斉明天皇が舒明天皇・岡本宮天皇と言って孝徳天皇は大化・白雉と実質には宮を持ってなくて岡本宮が13年以上続いていて岡本宮14年662年もありえると思う。
冠位・年号がすべて664年に集まってきて天萬豐日天皇が亡くなったのも664年で、664年に蘇我大臣大連の死亡記事があって、先代旧事本紀に宗我入鹿連と入鹿を書いていて蘇我連大臣が664年5月にわざわざ是月と念を押して5月に書いたにもかかわらず
或本の注釈をつけて5月と念を押していて明らかに本来別の場所に書くべきことを5月に書いたようになっていて、664年6月のことかもしれない。
『先代旧事本紀』5巻天孫本紀15世孫
「宗我嶋大臣爲妻生豊浦大臣名日入鹿連公」
『日本書紀』天智天皇三年五月
「是月 大紫蘇我連大臣薨 或本 大臣薨注五月」
すなわち、乙巳の変は645年ではなく664年5月か6月に起こってその直後に鎌足に紫冠の褒章をし、天萬豐日天皇が亡くなって高祖母が天皇に返り咲き天智天皇を摂政として、摂政天智天皇が鎌足の冠を大紫冠に格上げし、前に書いた665年に訪唐した天皇が天豊財だということになる。
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