乙巳の変が664年と証明してきたけれど、蘇我入鹿はなぜか天皇よりも遅く帯刀して現れているけれど、これはどう見ても入鹿の方が偉そうで、しかも、天皇が目の前にいるにもかかわらず刀を置くためとはいえ刀に手をかけさせていて、武器を持った人々は隠れていてその場にはいないのにも関わらず、このような無礼が許されるはずがない。
そして、天皇はわけもわからず天智天皇にどういうことか問いかけているということは、本来入鹿が一番偉くて、入鹿を殺害してクーデタをおこしたのだけれど、孝徳天皇は詳細を知らされていなくて驚いたということで、前回書いた664年5月の劉仁願・郭務悰と打ち合わせた秘密裡の計画で入鹿が自分は悪くなくて天子の責任と言っているように対中国戦の責任の話と思え、天智天皇たちは戦争の責任を蘇我氏に追わせようとしたのが乙巳の変の原因だ。
さらに、天智天皇が皇位を取り上げようとしていたと返事していてクーデタを実行しなければ孝徳天皇が殺害させられるかも知れないということでクーデタがおこり、更に結果として孝徳天皇の急死があって、中国と実際に戦った責任者等が許され無かったとしか思えない。
『日本書紀』 皇極天皇四年六月戊申
「天皇御大極殿古人大兄侍焉・・・時中大兄即自執長槍隱於殿側・・・當居嗣位天之子也 臣不知罪 乞垂審察 天皇大驚詔中大兄曰 不知所作 有何事耶 中大兄伏地奏曰 鞍作盡滅天宗 將傾日位」
さらに、郭務悰は671年ではなく665年に来日して672年に帰っているけれど、672年の記事は695年のことで、665年から695年の31年間に及ぶ駐留だったようで、その駐留場所が筑紫都督府で、都督府は700年まで機能していて『那須国造碑』文の中国年号を伴った評督の役職だった。
『日本書紀』
天智天皇八年是歳 「大唐遣郭務悰等二千餘人」
天武天皇元年五月庚申 「郭務悰等罷歸」
郭務悰に廃位させられた天武天皇は郭務悰のお気に入りの大友皇子から郭務悰の帰国を待って政権を奪取したため唐の支持を得られず、逆に唐の支持を得た文武天皇が政権奪取してしまったとしか考えられず、粟田真人が701年に大昇進した理由が文武天皇支援を都督府から取り付けたためだと思われる。
郭務悰の664年5月の会談の後の蘇我氏抹殺、10月の饗応と孝徳天皇の死そして12月の帰国も天智天皇たちが中国の支持を取り付けて蘇我氏から政権を奪っていて、701年に文武天皇も中国の支持を取り付けなければならなかったとゆうことで白村江の敗戦は40年間も日本の歴史を翻弄して、現代の情景を思い浮かべてしまいそうだけれどごっちゃにすべきではなく、証明できない人物を使ったり、証明できない同一人物を想定してしまったら、歴史ではなく空想の世界になってしまう。
『日本書紀』
天智天皇三年五月甲子 「百濟鎭將劉仁願遣朝散大夫郭務悰等進表函與獻物」
天智天皇三年十月戊寅 「饗賜郭務悰等」
天智天皇三年十二月乙酉 「郭務悰等罷歸」
歴史はロマンなどではなく、ロマンを持つのは良いが論証できる科学でなければいけなくて、間違っても、郭務悰鎌足説だの筑紫君薩野馬天武天皇説などを主張しても古文献にそんなことを書いたものが1つもなくて証明する方法がない。
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