2017年5月14日日曜日

最終兵器のミサ 日本の時計

 前回史書を書いた王朝の区切りをみたけれど、これは何を意味するかというと、例えば日本世記は斉明天皇から書いているということは斉明天皇の時代あたりで天皇記・國記を書いたということ、すなわち、日本世記は日本書紀の持統天皇までを書いていて、持統天皇の王朝が天武天皇まで日本世記を書いて持統天皇が元明天皇の時代に活躍しているように、日本世記曰と嶋大臣を書いていないということは斉明天皇の時代に嶋大臣が活躍していたと考えられることを示しているし、すでにそれを証明した。
そして、欽明天皇から推古天皇の時代にその前の王朝が活躍し、その前の王朝は継体天皇から、さらにその前は古事記の世界の可能性があるため雄略天皇または允恭天皇、さらに履中天皇か応神天皇の王朝が始まったと考えられて、さらに、朝鮮の史書の三国史記すらも、173年の卑弥呼の訪新羅が2代ずれていて日本の時間を採用したと思われて、奈解尼師今20年の215年の可能性がある。
  『三國史記』 卷第二 新羅本紀第二  阿達羅尼師今
「二十年 夏五月 倭女王卑彌乎 遣使來聘」

そうすると、神功皇后の卑弥呼記事も正しくて皇后は卑弥呼のように独身でないので神功皇后の宮と並行して卑弥呼の宮があって、なぜかこの時期だけ九州の香椎に宮を遷しているけれど、この興味深い話はずっと後にしておきたい、なぜなら、現在の天皇家の先祖ではあるけれどまだ地方政権の倭国の話、日本国の一部の話で卑弥呼に関してそれほど興味があるわけではないし、古文書全てを信じれば邪馬台国も一目瞭然だとゆうこと。
だけど、日本書紀の時間と三国史記の時間が大きく狂っている部分があるけれど、これも、干支が一巡り違うからとその部分だけ動かすのは間違いで、古事記を書いた王朝の時計も、三国史記の2代のずれを考慮する必要があるとゆうこと。
日本書紀と古事記があるおかげで、真実の古代史がよくわかって、日本は本当に幸せな国なのに古代史家はそれをどぶに捨てているけれども、古事記の資料を残してくれた仁賢天皇の縮見高野宮の官僚に感謝しなければいけない。
    『日本書紀』
仁賢天皇元年戊辰正月乙酉 「皇太子於石上廣高宮即天皇位 或本云億計天皇之宮有二所焉一宮於川村二宮於縮見高野其殿柱至今未朽」

日本の時計は欠史8代で、古事記の仁賢天皇以降の様に天皇の即位時の年齢と名前・皇后名・妃名・皇子名・次代天皇の皇子名・立太子年・宮の継続年・宮の名前・陵の名前が日本の時計で、これらの項目と干支がわかれば史書を 紀伝体から編年体に作り替えることができて、それぞれの宮には宮を作って幾年目に何が起こったという記録があったけど、なぜか2代目から9代目まで記録が無くどこかから宮の記録をつなぎ合わせた、そんな長い記録をもつのは日本書紀では高千穂宮しかなくて、古事記の記録を書き始めた時に580年宮が続いていてその記録を使ったけれど、天降ったと思われる地域の糸島市では弥生時代の硯が発見され、文字を刻んだ土器も出て文字を記録する環境はできていて高祖神社がある。
   『古事記』 神代
「日子穂ゝ手見命者 坐高千穂宮 伍佰捌拾歳」

前回も書いたように「森博達」とゆう先生が日本書紀巻13の安康天皇までは日本人が書いて日本書紀巻21の崇峻天皇までは中国人が書いたと論じているけれど、何故か偉い先生たちは何でも中国人が日本人に与えてもらわなければ何もできなかったと言いたがるけれど、そうではなくて、史書を最初に書いた日本人は中国語の知識を百済から習った王朝が書いたのであって、その後は、周の時から中国人に習った日本のエリートの弟子たちがずっと受け継いだ知識で書いたとゆうことで、書いた王朝が違うのだ。
だから、巻第24・巻第25は乙巳の変・大化の改新の記事だけ日本人が書いてそれ以外の部分が中国人とゆう矛盾があって、本来の周の時から習った王朝が書いたものに2つの記事を後から押し込んだために起こったのだ。

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