天萬豐日天皇が亡くなったとき近くには皇太子・高祖母・皇后・皇弟が取り巻いていて、高祖母が天皇位に就いて、引き続き天智天皇が皇太子になって、天智天皇の即位が668年にもかかわらず、664・667年に大皇弟が書かれているということは、この大皇弟は天智天皇の弟ではなく天萬豐日や天豐財の弟と考えるべきで、もし天智天皇の弟なら唯の皇太弟のはずで皇太子なら立太子しなければならず、天智天皇が即位したときに皇太弟と呼ばなければならないから、大海皇子は天智天皇の叔父にあたっていて、667年天智天皇が即位前667年の当時の天皇を皇太后天皇と呼んで以前皇后であったと書いていて以前天皇に就いて、この天智天皇が皇太子という天皇と同格で称制・摂政も務め天豐財はピッタリだ。
『日本書紀』
白雉五年十月癸卯朔
「皇太子聞天皇病疾。乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟公卿等。赴難波宮。」
天智天皇即位前紀
「譲位於天萬豐日天皇 立天皇爲皇太子 天萬豐日天皇後五年十月崩 明年皇祖母尊即天皇位」
天智天皇三年二月丁亥
「天皇命大皇弟 宣増換冠倍位階名及氏上民部 家部等事 其冠有廿六階」
天智天皇五年(666)三月
「三月。皇太子親徃於佐伯子麻呂連家。」
天智天皇六年(667)二月戊午《廿七》
「皇太子謂羣臣曰。我奉皇太后天皇之所勅。憂恤萬民之故。不起石槨之役。所冀永代以爲鏡誡焉。」
天智天皇七年(668)正月戊子《三》
「皇太子即天皇位。」
そして、天武天皇は新唐書に天智天皇の子と書いていて、天武天皇の皇子たちの盟約で兄弟でないはずの芝基皇子が兄弟と言っていることから、この時の天皇は天智天皇の発言で、この時代は郭務悰が日本に来ていて親子関係を間違えるはずがないことから、壬申の乱の勝者は天智天皇で敗者は大海人皇子であって、大友皇子が敗者の天武天皇との戦いは695年に起こったことが解る。
『新唐書』
「天智死 子天武立 死 子總持立」
『日本書紀』
天武天皇八年五月乙酉
「天皇詔皇后及草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子曰・・・吾兄弟長幼、幷十餘王、各出于異腹。然不別同異」
朱鳥元年八月癸未
「芝基皇子。磯城皇子。各加二百戸。」
芝基皇子が671年にはまだ幼く679年に盟約できる年齢に達して686年に加増される年齢だったということは光仁天皇が芝基皇子の40歳頃の子、天智天皇の20代に芝基皇子が誕生したことになって、日本書紀通りであれば天智天皇も芝基皇子が50歳近い時の子となってしまって現代を思わせるような高齢出産時代となって、藤原不比等も鎌足が23歳の子で当代一の出世頭の内臣の子として姻戚になろうと引く手あまたで文武天皇の姻戚になっても全く不思議ではない。
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