2017年5月10日水曜日

最終兵器のミサ 古事記と日本書紀の読み方



 日本書紀の2代のズレと古事記の系図に付け加えた「天」の姓をもつ人物を調べてきて、矛盾なくすらすらと説明できたけれど、どうして古事記は推古天皇で書くのをやめたか説明すると、元明天皇の系図も正しくて、古事記では継体天皇から欽明天皇まで統治年数を書いていない、すなわち、元明天皇の実質活躍している系図は敏達天皇から推古天皇までで舒明天皇は元明天皇にとって現代だということと考えられる。
すなわち、日本書紀が2代ずれているとゆうことは、古事記も2代ずれていて、推古天皇で終わりということは2代ズレて皇極天皇にあたって古事記の推古天皇は皇極天皇と一緒に始まって、宮も小治田と同じで在位37年と長く日本書紀の皇極天皇は665年と解ったので古事記の推古天皇元年も665年で37年は701年で702年に太上天皇が死んでいる。
  『古事記』
「豊御食炊屋比売命 坐小治田宮 治天下三十七歳」
  『続日本紀』
大宝二年十二月乙巳 「太上天皇不豫 大赦天下 度一百人出家 令四畿内講金光明經」

そして、聖徳太子に関する古文書が多く残っていて、日本書紀に影響されているけれども、摂政を行っている太子というのは天智天皇のことで、推古天皇の宮と書いているのは元明天皇家が住んでいたところの宮を書いていると考えれば辻褄が合い、元明天皇家の舒明天皇は飛鳥浄御原天皇こと文武天皇のことと考えることができる。
すなわち、古事記は日本書紀よりさらに2代近くズレてしまったわけで、古事記の世界で記述している古い文献は、隋書や法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘には推古天皇の時代にあてているけれど大王で、法隆寺金堂薬師如来像光背銘や聖徳太子関係の文献や先代旧事本紀は良くて「大王天皇」でほとんど「天皇」と時代が違うか対象が違う。
とゆうことは、日本書紀を書いた王朝と古事記を書いた王朝は違う王朝で日本書紀に古事記の系図を押し込んだため矛盾ができてしまって、古事記も天皇名を見ると垂仁天皇までが元明天皇の家系のように感じる。
そのため、舒明天皇から「天」姓につなぐ時と天武天皇及び持統天皇から文武天皇につなぐ時に苦労していて、舒明天皇の接続に白雉年号から大宝年号の前の大化年号を入れ込み、天武天皇から文武天皇につなぐために朱鳥年号を使って舒明天皇に戻して持統天皇に文武天皇へ天皇位を禅譲させた。
元明天皇は史書を書く能力はなかったけれど、江戸時代の国学者たちによって間違いだらけの史書と言いながら受け入れられてしまって、矛盾の場所だけ間違いと都合の良いとらえ方をしたけれど、その原因は次の史書『続日本紀』も元明天皇の都合を受け入れてしまったためで、天姓の桓武天皇が天姓の天皇を引きずりおろした藤原氏の巨大勢力を恐れて受け入れざるを得なかったのではないのか。
日本の史書は史書を書いた時代の権力者を無視できない見方で記述するために、前代の史書を継承してきたと考えれば、日本書紀の内容がよくわかると思う。
ここまでで書いてきたのは、日本書紀は天皇の在位時代が2代ずれていて、しかも天皇名は天皇個人の名前ではなく統治した宮の名前で、1人の天皇には複数人の天皇がいたり、複数の天皇が1人の天皇の可能性があるということ、さらに持統天皇と飛鳥浄御原天皇が並行して有ったように、前後の天皇の中には同じ時に天皇だったことも頭に入れなければならない。
そして、古事記はさらに日本書紀と2代ずれている、実際の統治年代は4代ずれているので、日本書紀には2代ずれた内容が書かれている可能性があって、記事がずれているわけではないけれど天皇名もさらに2代ズレてることを考えながら読まなければならないけれど、日本書紀の天皇は新唐書も使っているように、日本の古代の標準時計であることには変わりがない。

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