2017年5月25日木曜日

最終兵器のミサ 船王墓誌

 668年頃に彫られた『船王後墓誌』という遺物があるけれど、この人物は乎娑陀宮の天皇のとき生まれて等由羅宮からその次の阿須迦宮で仕えたけれど阿須迦天皇の末年とゆうことは阿須迦宮から変わった前年641年に船王が亡くなり668年に奥さんが亡くなったので追葬して墓誌を作ったと書いてあって、船王は日本書紀通りなら遅くとも585年には生まれていて、56年間以上生きてその奥さんがさらに27年生きていることから80近く生きたことになり、641年は舒明天皇の末年で飛鳥には違いないけれど岡本宮天皇のはずで、そしてその前は推古天皇で小墾田宮が抜けてしまう。
   『船王後墓誌』
「惟船氏故王後首者是船氏中祖王智仁首児那沛故首之子也 生於乎娑陀宮治天下天皇之世奉仕於等由羅宮治天下天皇之朝至於阿須迦宮治天下天皇之朝天皇照見知其才異仕有功勲勅賜官位大仁品為第
三殞亡於阿須迦天皇之末 歳次辛丑十二月三日庚寅 故戊辰年十二月殯葬於松岳 」

新しい説で考えると、641年に宮を変える天皇は舒明天皇の2代前崇峻天皇になってしまうけれど、 『上宮聖徳法王帝説』で推古35年と年号は違うけれど干支では641年薨と蘇我馬子の死亡を書いていて、馬子の宮が終わった可能性が大きく日本書紀にも642年に遷都しているけれどもここでは蘇我氏の天皇説は別に書く。
   『上宮聖徳法王帝説』
「曾我大臣 推古天皇卅四年秋八月 嶋大臣【曾我也】臥病 爲大臣之男女 并一千人・・・ 
 又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥之 卅五年夏六月辛丑薨之」
   『新唐書』
「崇峻死 欽明之孫女雄古立 次舒明 次皇極」
   『日本書紀』
皇極天皇元年十二月壬寅 「天皇遷移於小墾田宮 或本云 遷於東宮南庭之權宮」

崇峻天皇前期に書いてある、用明天皇末年628年に難波を侵略していて、用明天皇の宮が九州で崇峻天皇が同じく九州の乎娑陀宮、そして、大阪の難波に宮を630年に建設して632年に難波の豐浦宮に遷ろうとしたけれど、崇峻天皇こと押坂彦人大兄皇子が死亡したので遷れず、その時の天皇(蘇我氏)は唐の高表仁に大阪への豐浦宮遷都の式典に招待し、押坂彦人大兄皇子の後継者の遷居は延期になり茅渟王即位後に蘇我天皇は636年に阿須迦宮に宮を遷した。
   『日本書紀』
崇峻天皇即位前紀用明天皇二年七月 「物部守屋大連資人捕鳥部萬 將一百人守難波宅 而聞大連滅」
舒明天皇二年十月癸卯 「天皇遷於飛鳥岡傍」
舒明天皇四年十月甲寅 「唐國使人高表仁等到干難波津」
舒明天皇八年六月 「天皇遷居田中宮」

崇峻天皇四年に語田天皇の陵に敏達天皇と全く関係がない皇后を追葬していて、これは崇峻天皇が欽明天皇の子ではなく敏達天皇の子の麻呂子でその皇后は糠手姫になり、その母を敏達天皇の陵に追葬したということで、実際は崇峻天皇自体の葬送と考えられて、子の田村皇子を即位させるため糠手姫が天皇及び皇祖母となって舒明天皇こと吉備姫を退位させて田村皇子を即位させたけれど、すぐに死んでしまって皇極天皇が即位した。
   『日本書紀』
崇峻天皇四年四月甲子 「葬譯語田天皇於磯長陵是其妣皇后所葬之陵也」

船王墓誌のおかげで、宮の移り変わりがわかり、阿須迦宮のあとは不明の宮(たいてい池邊大宮)そして難波長柄豐碕宮に遷ったけれど、天氏大王は別の岡本宮に住んでいた。

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