立太子の分析を続けると、聖徳太子の前の立太子は敏達天皇の欽明天皇時の立太子すなわち2代ずれて宣化天皇の安閑天皇時の立太子の事になる。安閑天皇は前代の継体天皇が本来28年在位のはずが25年の在位になってしまい、敏達天皇の立太子年が安閑天皇の時のはずが年が合わなくなってしまった。そのための欽明天皇29年とゆうことは2代ずれて継体29年の意味になったかもしれない。すなわち安閑天皇5年、宣化天皇が即位時に宣化天皇の子が小さいかいなかったため欽明天皇を太子に立てた。
前回書いた筑紫火君が宣化天皇で継体天皇15年518年に葛子が立太子して528年に磐井が殺害されたため同じ宮で即位して、葛子の子火中君(中皇子・宣化天皇)が536年に即位して同時に弟の火君(兔皇子・欽明天皇)が立太子して、540年に即位してから以降の聖徳太子以外は天智天皇まで長男が即位して宮だけ変更したようだ。
『日本書紀』
敏達天皇即位前紀 「廿九年立爲皇太子」
欽明天皇十五年正月甲午 「立皇子渟中倉太珠敷尊爲皇太子」
継体天皇二二年十二月 「筑紫君葛子恐坐父誅 獻糟屋屯倉 求贖死罪」
「ミサ 太子5」で書いたように磐井は504年に即位しているけれど、その前は「武」で、大明六年461年は「興」で昇明元年477年は不明で昇明二年478年は「武」で「興死弟武立」は477年の内容と考えられる。大王交代時期は「清寧天皇477年」と合致して、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇・武烈天皇は同じ大王「武」だとゆうことが解り、1大王の宮の交代した。弟が27年間即位するとゆうことは、長男も高齢になり、磐井も22年間大王だったとゆうことは「武」の次男が482年に太子となって、さらに仁賢天皇7年491年の立太子は孫または甥の可能性がある。
『宋書 卷六 本紀第六 孝武帝 』 大明六年
「壬寅 以倭國王世子興爲安東將軍」
『宋書 本紀第十 順帝』 昇明元年
「冬十一月己酉
倭國遣使獻方物」
『宋書 卷九十七 夷蛮伝 倭國』
「詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」
「丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王
興死弟武立 自稱使持節都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王」
「順帝昇明二年・・・詔除武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭王」
『日本書紀』
清寧天皇三年四月辛卯 「以億計王爲皇太子 以弘計王爲皇子」
武烈天皇即位前紀 「億計天皇七年。立爲皇太子」
同じように古事記の雄略天皇(興)22年472年、弟の「武」が立太子して「興」は451年元嘉28年に大王を継いで、「興」と「武」が兄弟で、日本書紀に書かれていて古事記に書かれていない、磐城皇子が「興」で星川稚宮皇子が「武」の可能性があり、古事記では仁賢天皇が継体天皇なので「武」は顕宗天皇、「興」は清寧天皇に対応する。
『宋書 卷五 本紀第五 文帝』 元嘉二十八年
「秋七月甲辰 安東將軍倭王倭濟進號安東大將軍」
『宋書 卷九十七 夷蛮伝 倭國』
「二十八年加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人軍郡」
「濟死丗子興遣使貢獻」
「丗祖大明六年詔曰倭王丗子興奕丗載忠作藩外海稟化寧境恭修貢職新嗣邊業宜授爵號可安東將軍倭國王」
『日本書紀』
雄略天皇二二年正月己酉朔 「以白髮皇子爲皇太子」
0 件のコメント:
コメントを投稿