2017年7月7日金曜日

最終兵器のミサ 立太子の分析1

 いままで、太子と言うものを考えてきたけれど、太子とゆうものは権力が下手をすると天皇より強大で、天皇はどちらかとゆうと祭祀を行って、歴史と経験で神の名のもとに命令する立場のような地位と思える。隋書で大王アマタリシヒコが夜に統治して夜が明けたら弟に任せる、とゆうことは、日の神の目が届かない夜は大王が神となって国を治め、昼間は日の神のご加護があるので弟に任せた。この弟は隋書の登場人物では太子のリカミタフリしかいない。
『隋書』 俀国伝
開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟・・・王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利

そして、このタリシヒコは新唐書に用明天皇だと書いてあって、日本書紀の推古天皇は実のところ用明天皇だったと新唐書は証明している。推古天皇の太子は立太子で甥のいわゆる聖徳太子を太子にしたと書いているけれど、実は推古天皇ではなく用明天皇で子供が小さいため弟を立太子で太子にし、大王は自らを法興帝と呼んだ。もう一人の大王である太子は聖徳太子すなわち敏達天皇の姫が東宮とゆうことは太子の聖徳に嫁いだとかいてあり、そして、隋の批判を受け入れてもう一人の大王太子を法皇とした。
『新唐書』日本
次海達 次用明亦曰目多利思比孤
『日本書紀』
敏達天皇五年三月戊子 「其一曰菟道貝鮹皇女 更名菟道磯津貝皇女也 是嫁於東宮聖徳」

そして、621年に上宮法皇の母親が亡くなるのだけれど、聖徳太子は天皇になっていないのに天皇が出家した法皇を名乗って、しかも、穴穂部間人太后の死亡も日本書紀に書いていないのは、片手落ちで、それに加えて日本書紀では突然上宮と光背銘に合わせている。
隋書で大王の名前がアマタリシヒコと古代の名前で役職の名前を書いているとゆうことは、リカミタフリも役職名で本来の名前はどう読んでも日本語らしくないリカミタフリではなく聰耳が名前でないだろうか。
『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』
法興元丗一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩。明年正月廿二日、上宮法皇枕病弗悆。  
『日本書紀』
推古天皇二九年(621)二月是月 葬上宮太子於磯長陵。・・・上宮豈聰耳皇子

用明天皇すなわち推古天皇から舒明天皇の時代の日本書紀は蘇我氏が書いた部分で、力を2分するような大王家を無視できないので大王家の王位継承に口出ししたのだと思われる。吉備姫の父は櫻井皇子だけど古事記では櫻井皇子が欽明か敏達かどちらの子かわからず、前夫の祖父橘豐日天皇は蘇我氏のことかもしれない。『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』池邊大宮治天下天皇は大王ではなく天皇で蘇我氏のこと、そして、小治田大宮治天下大王天皇は蘇我氏を倒した皇極天皇で、皇極天皇家は大王と言われていたのが天皇になったので大王天皇とただの天皇との区別は理にかなったものだ。
『古事記』
欽明天皇 「次 桜井之玄王」
敏達天皇 「次 桜井玄王」
『日本書紀』
欽明天皇二年三月 「其十曰櫻井皇子」
斉明天皇即位前紀 「初適於橘豐日天皇之孫高向王」
『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』
「池邊大宮治天下天皇 大御身勞賜時 歳次丙午年 ・・・小治田大宮治天下大王天皇」

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