2017年7月24日月曜日

最終兵器のミサ 元明天皇の系図

 元明天皇の系図は「ミサ 元明天皇」で書いたように中臣氏と分析したけれど、記紀ではどう扱ったかを見ると、神話では記紀共にある程度の地位を得ている。けれど、神武東征で古事記は資料としては日本書紀の方が先なので古事記は中臣氏を削除してしまっていて、古事記を書いた王朝は中臣氏を敵対勢力と考えたとゆうことだ。
当然で、古事記は大臣の勢力が書いた史書のため、連の中臣は敵対勢力で、神武東征にかかわっているはずがないし、一度も貢献しないでずっと敵だったことが解る。けれど、なぜか継体天皇のところに石井のことを追加しているとゆうことは、石井征伐が中臣氏の中央での活躍のあかしだったのだろう。
『古事記』 継体天皇
此之御世 竺紫君石井 不従天皇之命而 多无礼 故 遣物部荒甲之大連 大伴之金村連二人而 殺石井也
 
そして、古事記と日本書紀の共通の天皇の系図は中臣家の系図が含まれるのは元明天皇の承認を得ていて当然で、石井の記事を継体天皇にはめ込んだとゆうことは日本書紀の継体天皇の記事には中臣家のことが書かれている。袁本杼は近江国高嶋郡から越前高向そして三国坂中井に遷り、即位時に樟葉さらに石井と緊迫したのに乗じて磐余に遷ったと書いている。
『日本書紀』
継体天皇即位前紀 
「自近江國高嶋郡三尾之別業、遣使聘于三國坂中井納以爲妃 遂産天皇・・・父王薨・・・余歸寧高向 高向者、越前國邑名」
継体天皇元年正月甲申 「天皇行至樟葉宮」
継体天皇二十年九月己酉 「遷都磐余玉穗 一本云 七年也」
『古事記』 継体天皇 「天皇御年、肆拾参歳 丁未年四月九日崩也 御陵者、三島之藍御陵也」

そして、上に書いたのと同じ足跡で、初代の神倭伊波礼毘古は三輪の伊波礼で毘古(長官)になり、2代目の神沼河耳は神国の沼河の耳(長官)、3代目は師木津日子玉手見と師木津の日子(長官)の部下で、師木津は伊賀・名張・美濃を治めた祖と近江近辺を支配した王の部下と考えられる。大倭日子鋤友・御真津日子訶恵志泥・大倭帯日子国押人・大倭根子日子賦斗迩・大倭根子日子国玖琉・若倭根子日子大毘ゝ・御真木入日子印恵・伊久米伊理毘古伊佐知と主に「大倭」の地域これは「オオワ」と呼ぶのが正しいとおもうけれど、 大倭と呼ばれる地域の周辺で 大倭の王に仕える日子(長官)の部下だった。
大毘ゝ・旦波大県主と姻戚に持ち三国や越前と近隣で印恵の時は大彦が北陸を遠征し大毘ゝと接点があって、印恵は大彦と姻戚になり、御真木が越前に遷り、伊久米が樟葉に遷ったのではと考えられる。
『古事記』 
安寧天皇 「師木津日子命・・・一子、孫者、伊賀須知之稲置・那婆理之稲置・三野之稲置之祖」
開化天皇 「娶旦波之大県主、名由碁理之女、竹野比売、生御子、比古由牟須美命」
『日本書紀』
崇神天皇十年九月甲午 「以大彦命遣北陸」
崇神天皇十年九月壬子 
「武埴安彦先射・・・故時人號其脱甲處曰伽和羅 褌屎處曰屎褌 今謂樟葉訛也 又號叩頭之處曰我君」

伊佐知(中臣連祖探湯主)は垂仁天皇と直接対応する立場になって、探湯主と烏賦津使主が仕えた王朝は古事記を書いた王朝ではなくてその前の王朝で、允恭天皇までは古事記の王朝以前の王朝のことが書かれている。
『日本書紀』
垂仁天皇二五年三月丁亥 「時天皇聞是言 則仰中臣連祖探湯主而卜之 誰人以令祭大倭大神」
允恭天皇七年十二月壬戌朔 「而復勅一舎人中臣烏賦津使主曰 皇后所進之娘子弟姫 喚而不來」

磐余への遷ったあとの名前が広国押建金日・建小広国押楯・天国押波流岐広庭と広国がどこかわからないけれど「国押」と王様になったような名前で天国の王様になったような名前の時、天皇に直接が対応できるようになって、沼名倉太玉敷の時から古事記では在位年数が書かれるようになり、首都に宮をもてる地位となったようだ。
『日本書紀』
欽明天皇十三年十月
「中臣連鎌子同奏曰 我國家之王天下者。恒以天地社稷百八十神 春夏秋冬祭拜爲事 方今改拜蕃神 恐致國神之怒・・・中臣連鎌子同奏曰 昔日不須臣計致斯病死 今不遠而復 必當有慶 宜早投弃 懃求後福」

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