前回は古事記・日本書紀を書いた王朝の中臣氏の歴史を考えたけれど、今回は諸国の歴史・地理誌集(風土記のような歴史?)の『四方志』はどうゆうものかとゆう事を考えて見る。まず1番に考えられるのは古事記の基礎になった資料と考えるべきで、古事記が日本書紀の神話や天氏の資料を得ているとゆうことは天氏とまだ対立しない友好関係の時でないと資料は得られない。古事記を書いた王朝が以前の王朝から政権を奪取してすぐで天氏と共通の敵を倒そうとしたすぐと考えられる。
以前にも書いたように履中天皇の弟が王の璽を取得しているけれど、即位元年は2代ずれている可能性が大きく、允恭天皇の即位前紀は2代前の履中天皇のことで、史書を創るのは元明天皇が古事記を書かせたように王朝を建てたときだ。
『日本書紀』
履中天皇四年八月戊戌 「始之於諸國置國史 記言事達四方志」
允恭天皇即位前紀 「即選吉日 跪上天皇之璽」
だから、四方志は天氏の仁徳天皇が書いた応神天皇までの資料と高千穂宮の資料と豊富な神話を持つ出雲の資料を手に入れたけれど、履中天皇の王朝は応神天皇の時に文字を覚えたばかりで、古い資料を持ち合わせていないと考えられる。現在の千字文は6世紀に完成したものだが、それ以前の文字練習に現在の千字文の参考となる千字文が無かったとは言い切れないが、古事記完成時に千字文に書き換えたか?
『古事記』
神代 「日子穂ゝ手見命者 坐高千穂宮 伍佰捌拾歳」
品陀和気命 「受命以貢上人 名和迩吉師 即論語十巻・千字文一巻 并十一巻 付是人即貢進」
『日本書紀』
応神天皇十六年二月 「王仁來之 則太子菟道稚郎子師之 習諸典籍於王仁 莫不通達」
そして、古事記には大連が末尾の袁本杼の章に物部荒甲之大連が書かれているだけで、物部十千根大連・物部伊莒弗大連・物部目大連・大伴室屋大連が書かれていない。すなわち、古事記の王朝は大連を書かない大連と敵対する王朝だとわかり、履中天皇は大連の国から王の璽を奪ったことが解る。
ところが、大連に対抗する「大臣」は建内宿祢大臣・大前小前宿禰大臣以降「意富美」と書き換えているけれど日本書紀と同じ大臣が書かれている。天皇の名前が男浅津間若子宿祢と大前小前宿禰大臣と同じ役職名で建内宿祢の家系が大前小前宿禰(物部氏)と張り合って男浅津間若子宿祢が王の璽を得たと考えられる。日本書紀では圓大臣が書かれているけれど古事記には書かれていなくて、圓が男浅津間若子宿祢と考えられ、目弱王が穴穂を殺して殺された父親の宮殿ににげて、逃げた場所が古事記の書き方で「都夫良意富美之家」だった。
『日本書紀』
履中天皇二年十月
「平羣木莵宿禰 蘇賀滿智宿禰 物部伊莒弗大連 圓大使主共執國事」
雄略天皇即位前紀 「逃入圓大臣宅・・・方今坂合黒彦皇子與眉輪王」
『古事記』 穴穂御子
「殿下目弱王、聞取此言、便窃伺天皇之御寝、取其傍大刀乃、打斯其天皇之頚、逃入都夫良意富美之家也」
とゆうことはやはり、古事記で大臣が消えた時大臣が天皇になったとゆうことで、履中記の墨江中王の乱による葛城(圓)大臣、安康紀の眉輪王暗殺で平群(眞鳥)大臣、武烈紀の鮪殺害で許勢(男人)大臣がそれぞれ男浅津間若子宿祢(2代ずれて履中天皇の璽移動)・大長谷王(同じく允恭天皇の璽移動)・白髪大倭根子(同じく安康天皇字の璽移動無)・小泊瀬稚鷦鷯(同じく顕宗天皇の璽移動)にあたる。
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