前回の続きで倭の5王のことだけれど、元嘉2年425年は「賛」・元嘉7年430年と元嘉15年438年は不明・元嘉20年443年は「濟」でその間に「賛」の弟の「珍」が即位して「珍」と「濟」の関係は書いていないので通常親子だ。けれど、「珍」は430年と438年のどちらで交代したかというと、通常書かないときは前回と変わらないと考えるのが常識で、438年が妥当と思われて、「ミサ 太子5」の允恭天皇の409年から450年に当てはまる。
「興」の親の「濟」は「興」や「武」が即位と同時に訪中しているように443年に「濟」、438年に「珍」が考えられ、親子相続なので同じ宮で雄略天皇と思われる。その前の「賛」は409年即位・「珍」の兄で宮が異なり、古事記の安康天皇に対応し、安康天皇は殺害されていて大王「珍」は同じ宮で大王になり、安康天皇自身も政権を奪っている。
『宋書 卷九十七 夷蛮伝 倭國』
「太祖元嘉二年讃又遣司馬曹達奉表獻方物」
「讃死弟珍立遣使貢獻自稱使持節都督倭百濟新羅 任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正」
「詔除安東將軍倭國王」
「珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔國將軍號 詔竝聽」
「二十年倭國王濟遣使奉獻 復以爲安東將軍倭國王」
『宋書 卷五 本紀第五 文帝』
「元嘉七年 是月 倭國王遣使獻方物」
「元嘉十五年 是歳 武都王・河南國・高麗國・倭國・扶南國・林邑國並遣使獻方物」
『日本書紀』
安康天皇三年八月壬辰 「天皇爲眉輪王見弑」
安康天皇即位前紀 「太子自死于大前宿禰之家」
そして、允恭天皇・反正天皇・履中天皇は兄弟で履中天皇も立太子で仁徳天皇の次男以降で仁徳天皇も応神天皇の長男ではなく宮の交代を日本書紀は書いている。「賛」の前の允恭天皇にあたる人物から応神天皇にあたる人物まで名前が不明だけれど、台与すなわち神功皇后の系図が解っていて、彦坐王・山代之大筒木真若王・迦邇米雷王・息長宿禰王・神功皇后だ。神功皇后は卑弥呼の宗女すなわち本家の姫とゆうことで垂仁天皇の姫とゆうことが解って、山代之大筒木真若王と彦坐王親子が垂仁天皇の可能性が高い。
『古事記』
若倭根子日子大毘ゝ命
「日子坐王・・・次、山代之大箇木真若王、娶同母弟伊理泥王之女、丹波能阿治佐波毘売、生子、迦迩米雷王此王、娶丹波之遠津臣之女、名高材比売、生子、息長宿祢王。此王、娶葛城之高額比売、生子、息長帯比売」
そして、景行天皇の名前がオオタラシヒコ、成務天皇がワカタラシヒコ、仲哀天皇がナカタラシヒコと隋書のアマタラシヒコと似通っていて、垂仁天皇こそアマタラシヒコなのかもしれない。孝昭天皇の皇子の名前にアマタラシヒコを名付けていて、孝昭天皇は紀元前95年からの王で日本書紀でいうと崇神天皇にあたっていて、日本書紀の内容のある記述は崇神天皇から始まっているて、王を継いだ話を書いている。このときアマタラシヒコを襲名して、代々アマタラシヒコを王としたと思え、國押人というのは領地を広げた中国の高宗や太宗と比べるような人物のようで、近淡海國造之祖と書いてあって、この近淡海は成務天皇の宮の近淡海だ。
『日本書紀』
孝昭天皇二九元年正月丙午 「后生天足彦國押人命 日本足彦國押人天皇」
崇神天皇四年十月壬午 「今朕奉承大運 愛育黎元 何當聿遵皇祖之跡 永保無窮之祚」
『古事記』
「兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也」
太子と立太子の分析によって天氏の宮の変遷が日本の時計だったことが証明出来て、日本書紀の内容が天氏の時計に対応させているため、かなり正確な内容だと考えてもよいとゆうことが解った。
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