2017年7月10日月曜日

最終兵器のミサ 立太子の分析2

 日本書紀での最後の立太子は681年の草壁皇子だけど、それ以前の太子の移り変わりを見ると、671年までは太皇弟すなわち天智天皇の弟なら皇太弟なので天智天皇の前の天皇の弟が皇太子だ。しかし、671年から立太子無しで普通の皇太子に変わっているとゆうことは天智天皇の長男が太子になって、弟の大友皇子は太政大臣に就任した。
この時の大皇弟が大海皇子で蘇我右大臣等と壬申の乱を起こして勝者は大海皇子ではなくて天智天皇で27歳の天智天皇には小さな子ばかりが周りにいるのは当然だ。そのあと、681年に長男の皇太子を廃位して弟の草壁皇子を皇太子にしたけれど、689年草壁皇子が死亡すると次の大友皇子が皇太子になった。ただし、草壁皇子が大友皇子の可能性も否定できない。廃位された長男は真人とゆう臣下にまで落とされ、695年に大友皇子の後ろ盾の郭務悰が帰国すると大友皇子から皇位を奪った。
草壁皇子の立太子を701年以降のことだとゆう見方もしたこともあるけれど、日本書紀に書いてあることが原則なので天智天皇下の話として、即位前期や元年記事の即位関係及び末年記事やその天皇の切っても切り離せない政治的な記事を動かすのが原則なので、立太子もそれに含まれる可能性もあるけれど草壁皇子も天智天皇の子供のようなので日本書紀通りで天皇位の禅譲記事は711年の記事と考えた。
天智天皇一〇年正月癸卯 「是日 以大友皇子拜太政大臣」
天智天皇一〇年正月甲辰 「東宮太皇弟奉宣 或本云 大友皇子宣命」
天智天皇一〇年四月辛卯 「此漏尅者天皇爲皇太子時始親所製造也」
天武天皇八年十月甲子 「亦別獻物天皇 皇后 太子 貢金銀刀旗之類各有數」
天武天皇十年二月甲子 「是日 立草壁皇子尊爲皇太子 因以令攝萬機」
持統三年四月乙未 「皇太子草壁皇子尊薨」
持統四年七月庚辰 「以皇子高市爲太政大臣」
持統十一年八月乙丑朔 「天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」

天武天皇の妃大蕤娘は父が蘇我赤兄大臣、天智の妃常陸娘の父も蘇我赤兄大臣、天智天皇より9歳年上の鎌足の娘の氷上娘も妃、天智天皇の娘の菟野皇女・大田皇女・大江皇女・新田部皇女も妃に迎えている。けれど、世代としては天智天皇の子の次男または三男としての草壁皇子が689年の立太子は理解できるけれど天智天皇の孫なら、704年の立太子になる。また、妃の分布を見ても天武天皇が天智天皇の長男とすると、常陸娘はどうかと思うけれど、鎌足の娘や天智天皇の皇女は年代としてピタリと当てはまる。天皇の血縁関係を調べると天皇・皇子・皇太子のおおよその年齢がよくわかる。


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