2017年7月12日水曜日

最終兵器のミサ 立太子の分析3

 天智天皇は657年立太子で吉備姫が皇位を譲って天萬豐日の皇太子になったけれどこの時は天智天皇は13歳で、この時天萬豐日と有間皇子と皇位継承を争ている。けれど、有間皇子は19歳で、天智天皇の母の天豐財重日は田村皇子の夫人で古人皇子の母で馬子女法提郎女が田村皇子の妃とゆうことは天豐財重日は蝦夷と同世代。天萬豐日の妃に阿倍倉梯麻呂大臣や蘇我山田石川麻呂大臣の娘がいて天智天皇にも阿倍倉梯麻呂大臣や蘇我山田石川麻呂大臣の娘がいる。とゆうことは、天萬豐日と天智天皇は同世代で入鹿世代だけれど天萬豐日は天豐財重日と兄弟で、有間皇子の妃の父は阿倍倉梯麻呂大臣で、阿倍倉梯麻呂大臣の娘橘娘は天智天皇の妃で有間皇子は天智天皇と同世代だ。
とゆうことは、有間皇子は天萬豐日の子ではなく兄弟で、皇太弟になるべき有間皇子が殺害されて、天智天皇を皇太子にすることになった。吉備姫が皇位に就いていたとゆうことは天萬豐日が年齢に達していなかったため譲れなかったと考えられることから、天萬豐日は皇位継承が決まった657年に20歳になったと考えられ、皇太子が若いため吉備姫は皇祖母として引き続き在位した。
『日本書紀』
斉明天皇元年正月甲戌 「皇祖母尊即天皇位於飛鳥板盖宮」
斉明天皇四年十一月戊子 「・・・是皇太子親問有間皇子曰 何故謀反」
斉明天皇四年十一月庚寅 「方今皇子年始十九 未及成人」
孝徳天皇即位前紀 「是日 奉號於豐財天皇曰皇祖母尊 以中大兄爲皇太子」
天智天皇即位前紀  「天豐財重日足姫天皇四年 譲位於天萬豐日天皇 立天皇爲皇太子」
舒明天皇十三年十月丙午 「殯於宮北 是謂百濟大殯 是時東宮開別皇子年十六而誄之」

そして、吉備姫は655年に皇祖母だったのが天皇に返り咲いたと書いてあるので、654年までは皇祖母だったとゆうことは吉備姫の子が天皇だったとゆうことで、天豐財重日が大王そしてその前が田村皇子が大王で『藤氏家傳』でいう岡本天皇の急死にあたる。
天豐財重日が天皇になったため吉備姫は皇祖母になったので、田村皇子の前は吉備姫が天皇になるけれど、吉備姫が天皇だった理由は、自分の子供の天萬豐日はまだ10代で大王に即位できる年齢ではなかったからだ。けれど、田村皇子は妃に馬子の娘女法提郎女がいるように吉備姫と天豐財重日の間で天智天皇の父親で丁度20歳を超えた年齢で、吉備嶋高祖母の皇子であるため大王になった。
吉備姫が大王の時は田村皇子が皇太子、田村皇子・天豐財重日の時は長男古人皇子が皇太子で吉備姫が大王に復帰した時皇太子は天萬豐日となり、古人皇子が失脚し、有間皇子も殺害されて皇太弟の候補もなくて天智天皇が皇太子となった。
『日本書紀』
斉明天皇元年正月甲戌 「皇祖母尊即天皇位於飛鳥板盖宮」
『藤氏家傳上 大師』
「俄而崗本天皇崩 皇后即位 王室衰微 政不自君 大臣竊慷慨之」

吉備姫の前は夫の茅渟王で647年に吉野太子が宮とともに焼死したため、田村皇子を皇太子としたけれど、茅渟王もすぐに死んで田村皇子が10代だったため妻の吉備姫が大王になった。
『日本書紀』
大化元年九月戊辰 「或本云 古人大兄 或本云 古人太子 此皇子入吉野山 故或云吉野太子」
大化三年十二月晦 「是日 災皇太子宮 時人大驚恠」

同じように、語田幸玉宮でタリシヒコ(豊浦皇子・法興帝)即位時にの弟リカミタフリ(豊耳聴 ・上宮法皇)語田幸玉宮の上宮で太子として即位してタリシヒコの子が麻呂子皇子で麻呂子はまだ幼児だったのでリカミタフリが太子になった。
リカミタフリ死後30代の麻呂子皇子が太子となって、タリシヒコ死後に麻呂子皇子が大王で10代の茅渟王が皇太子になったけれど、物部氏を滅亡させて大阪へ進出しようとしたとき麻呂子皇子が死んで、太子の茅渟王がまだ若かったため麻呂子皇子の妃糠手姫皇女が豐浦宮で大王を継承したけれど、このごたごたで蘇我氏が大王家の上宮法皇の皇子山背大兄を排除して天皇位を奪ってしまった。
『日本書紀』
舒明天皇即位前紀 「蘇我蝦夷臣爲大臣 獨欲定嗣位」
推古天皇即位前紀  「皇后即天皇位於豐浦宮」

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