厩戸豊聰耳に関する文献はたくさん残っていて、異なっているところも多くあるが、おおむね日本書紀と似通っている。古事記の系図を書いたのは推古天皇までしか書いていないとゆうことは、書いたのは舒明天皇、すなわち蝦夷・入鹿が完成させていて、『上宮聖徳法王帝説』をそのまま古事記に付け加えてもまったく違和感を感じない紀伝体の文書だ。
『上宮聖徳法王帝説』には『法隆寺金堂坐釋迦佛光後銘文』(法隆寺本尊釈迦三尊像光背銘)が書かれていて、銘文を参考にしていることがよく解って、日本書紀とも多くが違和感を感じないとゆうことで、『上宮聖徳法王帝説』は日本書紀の前景となった資料と言ってもいい。蝦夷を豊浦大臣といかにも推古天皇と関連づけて推古天皇の子供として豊浦で生まれたような名前で、厩戸豊聰耳の子にも豐浦皇子と名前が書かれている。
『日本書紀』
用明天皇元年正月壬子朔 「立蘇我大臣稻目宿禰女石寸名爲嬪 是生田目皇子 更名豐浦皇子」
推古天皇即位前紀 「皇后即天皇位於豐浦宮」
そして、欽明天皇の在位年数が32年のはずが41年になってしまったのは『上宮聖徳法王帝説』を書いた人物にとって41年が常識で、古事記には欽明天皇の在位年数が書かれていなくて敏達・用明・崇峻は古事記と同じ年数で用明の日本書紀と違うところも同じで、推古は馬子の死亡年の迷いが出ているのだろう。
『上宮聖徳法王帝説』
志歸嶋天皇治天下卌一年 辛卯年四月崩 陵檜前坂合岡也
他田天皇治天下十四年 乙巳年八月崩 陵在川内志奈我原也
池邊天皇治天下三年 丁未年四月崩 秋七月奉葬 或云川内志奈我中尾稜
倉橋天皇治天下四年 壬子年十一月崩 實爲嶋大臣所滅也 陵倉橋岡在也
小治田天皇治天下卅六年【戊子年三月崩 陵大野岡也 或云川内志奈我山田寸
・・・曾我大臣 推古天皇卅四年秋八月 嶋大臣【曾我也】臥病
・・・又本云 廿二年甲戌秋八月 大臣病臥之 卅五年夏六月辛丑薨之
『古事記』
御子、沼名倉太玉敷命、坐他田宮、治天下十四歳也。
弟、橘豊日王、坐池辺宮、治天下三歳。
弟、長谷部若雀天皇、坐倉椅柴垣宮、治天下四歳。
妹、豊御食炊屋比売命、坐小治田宮、治天下三十七歳。
『日本書紀』
用明天皇二年四月癸丑 「天皇崩干大殿」
さらに『上宮聖德太子傳補闕記』では643年に起こった聖徳太子一家の滅亡記事で3年後に天皇になる「輕王」をその人物と考えていない書き方だ。「入鹿」も宗我氏でないような書き方になっていて日本書紀の3年後の天皇や林臣は入鹿を喩えたとゆう背景と少し違っているとゆうことは、入鹿や輕王は全くの別人と考えているのだろうか。
『上宮聖德太子傳補闕記』
癸卯年十一月十一日丙戌亥時 宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輕王 巨勢德太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣鹽屋枚夫等六人 發惡逆至計太子子孫 男女廿三王無罪被害
『日本書紀』
皇極天皇二年十一月丙子朔 「以伊波能杯爾而喩上宮 以古佐屡而喩林臣 林臣入鹿也」
日本書紀より後に創られた資料でも日本書紀と違っているからと言って間違いとはしないで、原則は正しいと考えて日本書紀との矛盾の背景を考えなければ多くの資料のある理由がなくなってしまい、後の資料を基にして日本書紀が間違いとするのも本末転倒だ。
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