前回は縄文時代の遺跡と絡めて日本の歴史を書いたので、続いて出土遺物の話をしてみようと思うけれど、出土遺物で1番に思いつくのが『漢委奴國王』の金印で『後漢書』にも建武中元二年57年と書いてある。志賀島で発見されたと言われているけれど発見された場所が違うやら盗んで隠したと自分の説に合わないからと難癖をつけている。しかし、私には難癖などつけなくてもそのまま受け入れられて、倭奴国は猪野皇大神宮がある場所で志賀島はその国の神域で漢が滅亡した時に用が済んだため祀ったと考えられる。
『後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五』
「建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬」
次に現れるのは室見川で発見された銘板で『高暘左王作永宮斎鬲延光四年五』と彫られていて、「延光四年」は漢字でそれ以外は周時代から書き始められた篆字で書かれている。これの意味するところは、延光四年125に斎宮と分けて宮を造ったとゆうことで、しかも、この王様は周時代の文字の知識を持っていて書くことができたとゆうことで、しかも私が指定した宮の移り変わりの年号で126年から崇神天皇が始まる。その次は、奇抜な形をした刀の七支刀で、268年に作られて倭王旨に送っているけれど倭王の名前や百済の王子に合わないと違う年号に言い換えている。けれど、自分の王子が生まれた記念に日本に送るというとぼけた話があるとは思えない。実際は聖徳の子は応神天皇で応神天皇の誕生を祝って送ったのであって、倭王旨は仲哀天皇の死後皇位に就いた長男のことと考えられる。
『石上神宮伝世の七支刀』
泰始四年五月十六日丙午正陽 造百練鋼七支刀 呂辟百兵 宜供供侯王永年大吉祥
先世以来未有此刀 百□王世子奇生聖徳 故為倭王旨造 伝示後世
次は『江田船山』の銀象嵌の刀があるけれど、年号が書かれていないし、王名が不明で分からないけれど、言われているような雄略天皇ではない。天皇ではなくて大王と書かれていて、磐井が豊や火を侵略したと書いていて磐井以前は火や豊は領域外で糟屋郡から逃れて肥後に遷ったと考えられる。そのため磐井より後の天氏の王だと思われ、大王の世の中ではなくて「世」とゆう王名で継体天皇元年に「世云」と一般には世の人が言っていると受け取られている。けれど、この言葉を述べて「踐祚」と皇位を継いでいるので、この王になった人物の言葉で、2代後ろの宣化天皇(火君)のことかと思われる。王の時代を言う場合は治天下天皇之時、世を使う場合は治天下の前に宮があって、宮で治めた天皇の世と書く。
『江田船山古墳出土の銀錯銘大刀』
「治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中用大鉄釜并四尺廷刀八十練九十振三寸」
『日本書紀』 継体天皇元年正月丙寅
「世云 勿論貴賎 但重其心 盖荒篭之謂乎 及至踐祚 厚加荒篭寵待」
そして、その次は『隅田八幡神社人物画像鏡』で癸未年は623年で聖徳太子が死んで2年後で私は聖徳太子がタリシヒコの弟で太子リカミタフリがもう一人の天皇としたけれど、聖徳太子が亡くなってその後を継ぐ皇太子イコール天皇がタリシヒコの長男で押坂彦人大兄皇子としたけれど、画像鏡には日十(人)大王が意柴沙加(押坂)宮で即位していて男弟王がその宮にいるときに鏡を作ったと書かれていてこれまたピッタリと符合する。
『隅田八幡神社人物画像鏡』
七支刀の記事の年号に矛盾があるけれど、この記事は268年がある天皇の宮の52年にあたっていて、日本書紀に接合するときにずれて挿入されたと考えるべきだと思える。日本書紀の日誌の部分は接合のズレを補正すれば正しい出来事と考えることができて、周時代使われた篆字を使いこなして、周時代に中国を訪問して、周時代の大夫とゆう制度を使ったとゆうことは周時代から資料を残している。そして、標準時計が無かったため年代が解らないだけだで、九州の王は漢が元号を始めたため標準時計ができ、その王の家系を日本書紀は日本の標準時計とした。
『日本書紀』
神功皇后摂政五十二年九月丙子
「久氐等從千熊長彦詣之 則獻七枝刀一口 七子鏡一面」
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