2017年8月30日水曜日

最終兵器のミサ  『藤氏家伝』

 前回までは当然原本は無かったり見ることはできないけれど、古い写本が写真のライブラリーとして国会図書館の文献で確認して分析できてきた。けれど、古い写本が見れないけれどネット上にあふれている原文と言っている情報があふれていて古代史を考えるための参考にできる。
しかし、所詮は古写本をさらに一部書き換えてある可能性があって一段階下にして注意深く考えないといけないけれど、とても重要な文献だ。だからネット上で脚色されているかもしれないけれど、まず、何度も触れた『藤氏家伝』を見てみると、矛盾が2点あって、1点が白雉と白鳳の年号の違いと2点目が斉明天皇に13年はなく白鳳13年なら673年になってしまう。
だけれども、白鳳を白雉にすればよいわけでもなくて、白鳳を白雉にすると天智天皇はまだ摂政ではなくて「庶務委」と言えない。皇太子が摂政でなくても「庶務委」ならことさら書く必要がなく、もっと大きな矛盾は645年にはまだ大錦冠がまだ制定されていないくて日本書紀にさえも矛盾がある。さらに、天皇の死亡が13年の問題は舒明天皇13年なら間違いではないが朝倉宮は無関係になり斉明天皇7年の間違いと言わなければならない。けれど、12・13・14と同じ間違いを繰り返すことは有り得ないと思うし、間違いならどうして間違えたか合理的な説明ができない。
『日本書紀』
孝徳天皇即位前紀皇極天皇四年六月庚戌 「以大錦冠授中臣鎌子連爲内臣 増封若于戸云云」
白雉五年正月壬子 「以紫冠授中臣鎌足連 増封若干戸」
大化三年是歳 「制七色一十三階之冠一曰・・・四曰 錦冠 有大小二階其大錦冠以大伯仙錦爲之」
『藤氏家伝』
「白鳳五年 秋八月 ・・・其大綿冠内臣中臣連 功侔建内宿禰 位未允民之望 超拝紫冠 増封八千戸
・・・俄而天萬豐日天皇 已厭萬機 登遐白雲 皇祖母尊 俯從物願 再應寶暦 悉以庶務 委皇太子 
・・・故遷大紫冠 進爵爲公 増封五千戸 前後并凡一萬五千戸・・・ 
冬十一月 天皇喪至自朝倉宮 殯于飛鳥川原・・・ 十四年 皇太子攝政 契闊早年」

しかし、日本書紀では舒明天皇の死亡時に東宮開別皇子が16歳と天皇には若いかもしれないけれど摂政には十分な年齢になっていて矛盾がない。白鳳5年の間違いも日本書紀通りに白雉5年と書こうとしたけれど矛盾を感じて白鳳にしたと思え、元々摂政も天皇が病気か幼少か不在の時に就任するものだ。日本の天皇は自らが先頭に立って戦うと倭王武が上表文に書いていて、実際に白村江の戦いが有ったのだから、天皇が朝鮮に出兵していた可能性も高く、665年には唐の天子と会っているので日本に不在だった。
『日本書紀』
舒明天皇十三年十月丙午 「丙午 殯於宮北 是謂百濟大殯 是時東宮開別皇子年十六而誄之」
『舊唐書』 劉仁軌傳
「麟德二年 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅 擢拜大司憲」

日本書紀と 藤氏家伝はともに矛盾だらけで、舒明天皇13年に天智天皇が16さいで皇太子としているけれど、641年に16歳なら死亡時の671年は46歳で年齢が合わず、 藤氏家伝は皇太子を中大兄と殿下と呼ばないで孝徳天皇の皇太子になってから殿下と呼んでいる。何よりも日本書紀では鎌足の活躍が乙巳の変以降664年の郭務悰等との会談までなくて、これ以降何度も日本書紀に書かれている。
とゆうことで、 大紫蘇我連大臣薨が蝦夷の死亡で5月と書いてあるけれど或る本5月と念を押しているのは本来は6月なのだと思える。664年6月に入鹿を暗殺して蝦夷も殺して、 嶋皇祖母の死亡が後岡本天皇の死亡のことだとしたら、3人に対中国戦の責任を取らせたのだと思う。
『日本書紀』
天智天皇三年五月是月 「大紫蘇我連大臣薨 或本 大臣薨注五月」
天智天皇三年六月 「嶋皇祖母命薨」 
天智天皇三年十月乙亥朔 「宣發遣郭務悰等 勑是日中臣内臣 遣沙門智祥賜物於郭務悰」
『藤氏家伝』
「超拝紫冠 増封八千戸 俄而天萬豐日天皇 已厭萬機 登遐白雲 皇祖母尊 俯從物願 再應寶暦」

権力の中枢の藤原氏の史書でさえも自由に書けないで、日本書紀と比べながら書いていて、日本書紀を創るときも藤原氏の資料どおりに書いていない。正史の日本書紀だとゆうことをまざまざと示していて、きっと、不比等の歴史も書きはしたけれど日本書紀や続日本紀と鎌足の歴史以上に矛盾が有りすぎて削除するほかなかったのだと思う。

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