『
舊唐書』は日本史関連史書の中で魅力ある史書の1つとして、唯一日本で政権交代したと書いてある史書で、665年まで倭国として扱って670年から別種の日本国だと書いている。けれど、日本書紀ではどちらも天智天皇の摂政時と即位後で、しかも、郭務悰が日本に数千人を引き連れて来て同じ国と解っているはずなのに別国としている。とゆうことは、国名を変更したけど皇帝に入ってきている情報と違うため疑っているのだろう。
そのため、倭国を紹介する
東夷伝では648年までしか倭国との交渉に入れていないとゆうことは654年以降はすでに古くから冊封体制に組み入れてきた倭国と違う、唐に敵対する倭種の国として認めているとゆうことだ。
日本書紀は647年に皇太子の死亡のような記事があって、648年には茅渟王が死亡して649年に即位可能な年齢に達した男王がいないため茅渟王の夫人の吉備姫が即位して、倭国は大混乱で外交どころでなかった。蘇我氏が631年と同様に654年に天氏に代わって外交したけれどやはりうまくいかないで白村江戦に突入して唐は蘇我氏の王朝を正式な国と認めず、倭国は670年から日本国と国名を改名した。日本は地方政権の倭国ではなく蘇我氏の日本国を継承した倭国と地方政権の天氏の倭国を統一した日本国と宣言して今までの倭国とちがう説明をしたため、中国の旧来の史書と違うし、旧来の日本国は冊封体制に入っていなかったので「多自矜大」な態度を取ったのだろう。
『舊唐書』東夷伝 倭國 日本
至二十二年 又附新羅奉表 以通起居
「日本國者倭國之別種也・・・其人入朝者 多自矜大 不以實對 故中國疑焉」
舊唐書 卷四 本紀第四 高宗上 永徽五年 (654年)
「十二月癸丑 倭國獻琥珀・碼瑙 琥珀大如斗 碼瑙大如五斗器」
『舊唐書』 劉仁軌傳
「麟德二年(665年) 封泰山 仁軌領新羅及百濟・耽羅・倭四國酋長赴會 高宗甚悅 擢拜大司憲」
『新唐書』
東夷 日本
「咸亨元年(670年) 遣使賀平高麗 後稍習夏音惡倭名更號日本・・・使者不以情故疑焉」
『日本書紀』
大化三年十二月晦 「是日 災皇太子宮 時人大驚恠」
「多自矜大」な外交を行った責任者が大皇弟で669年を最後に出現しなくて、いわゆる壬申の乱で反乱を起こしたけれど、政権に復帰することはできず左大臣蘇賀赤兄・右大臣中臣金も責任を取らされ、天智天皇が引き続き694年まで即位した為白鳳年号も681年まで続き、天智天皇や大友皇子が死んでいたら年号は確実に変わった。
『日本書紀』
天智天皇八年(669)十月庚申《十五》 天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家
天智天皇一〇年(671)四月辛卯《廿五》
置漏尅於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏尅。此漏尅者天皇爲皇太子時始親所製造也。
いわゆる、九州年号は日本書紀に白雉から書かれていて、天氏の年号と考えているようだけれど、継体天皇の時代からあって、天氏の大王の生死に関係なく建元していて、継体年号を始めたのは物部氏と思われるけれど、実際はそれ以前の遅くとも垂仁天皇の時代には元号があって景行天皇が即位するとき改元している。
『日本書紀』
景行天皇元年七月己卯 「太子即天皇位 因以改元」
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