2017年9月27日水曜日

最終兵器の日本古代史 大倭王朝

 紀元前5年には「大倭大神」の記述があり、「神倭国」から「大倭国」への王朝交代が起こったようだが、紀元前26年の「狹穗彦王謀反」が一番可能性が高そうだ。「饒速日」の直系で長男の天国にいた「天香語山」の直系の「瀛津世襲」が初代の「大倭国」の王と思われて大国王の可能性が高く、新羅の王子が日本の王に会いに出雲に来日したのだから、日本の死亡した王は出雲に居たことが解る。そして、次の王は新羅の王子の宝を石上の神府に藏していて、出雲の王が「大倭国」の王となったことが解り、垂仁天皇紀は出雲関係の記事が多いのは出雲出身の王だからだろう。そして、新羅の王子「都怒我阿羅斯等」は「大倭国」を「日本國」と呼び帰化したいと言うように、倭国との戦闘関係と全く整合せず、日本列島には新羅と戦う「倭国」と友好関係の「大倭国」が存在した。さらに、西暦71年に改元したと記述していて、「都怒我阿羅斯等」の言葉の「聖皇」は元号かも知れない。さらに紀元前86年に御肇國天皇と呼び、さらに、開化天皇の時代には王の子供が王と呼ばれ、子供の王の父はただの王のはずが無く、別の王・大王もしくは天皇と呼ばれ、神功紀では新羅王が神国聖王を天皇と呼んでいる。
『日本書紀』
崇神天皇十二年(乙未前86)九月己丑 故稱謂御肇國天皇也。
開化天皇六年(己丑前152)正月甲寅 「姥津媛生彦坐王。」
垂仁天皇二年(壬辰前28)是歳 
「名都怒我阿羅斯等。亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本國有聖皇。以歸化之。・・・是時遇天皇崩。」
垂仁天皇四年九月戊申 「皇后母兄狹穗彦王謀反欲危社稷」
垂仁天皇七年(戊戌前23)七月乙亥 「一臣進言。臣聞。出雲國有勇士。曰野見宿禰。・・・自出雲至。」
垂仁天皇二五年三月丁亥 「則仰中臣連祖探湯主而卜之 誰人以令祭大倭大神」
垂仁天皇二六年(丁巳前4)八月庚辰《三》 「天皇勅物部十千根大連曰。屡遣使者於出雲國」
垂仁天皇八八年(己未59)七月戊午《十》
「新羅王子天日槍初來之時。將來寶物今有但馬・・・皆藏於神府。然後開寶府而視之」
景行天皇元年(辛未71)七月己卯 「太子即天皇位。因以改元。」
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十月辛丑 「新羅王・・・曰 吾聞。東有神國。謂日本。亦有聖王。謂天皇」

そして、西暦74年頃瀬戸内と火国を領有し、豊前を掃討、肥後、筑後も支配下にしたが、西暦400年頃に次の王朝の葛城圓大臣が天皇に即位した。皇子が家臣の宅に逃げることがないと記述しながら君王が圓大臣の館に逃げ、葛城圓大臣が葛城宅七區を大王に献上したけれど大臣共全員殺されて、大王が天皇に即位している。履中天皇紀では圍太子と記述して圍大臣とも記述して日本書紀も混同し、圓大臣が即位した時も大王が天皇に即位し、 天皇璽符と璽を得て、「四方志」という史書を作ったと記述している。
景行天皇三年(癸酉73)二月庚寅朔
爰屋主忍男武雄心命詣之・・・仍住九年。則娶紀直遠祖菟道彦之女影媛。生武内宿禰。
景行天皇四年(庚戌74)二月甲子
「神櫛皇子。是讃岐國造之始祖也。弟稻背入彦皇子。是播磨別之始祖也。・・・武國凝別皇子。是伊豫國御村別之始祖也。・・・日向襲津彦皇子。是阿牟君之始祖也・・・國乳別皇子。是水沼別之始祖也。弟豐戸別皇子。是火國別之始祖也。」
景行天皇十二年(壬午82)九月戊辰
「到周芳娑麼。・・・唯有殘賊者。一曰鼻垂。・・・二曰耳垂。殘賊貧婪・・・三曰麻剥・・・四曰土折猪折・・・悉捕誅之。天皇遂幸筑紫。到豐前國長峽縣。興行宮而居。故號其處曰京也。」
景行天皇十二年(壬午82)十月 「到碩田國。・・・以討土蜘蛛。」
景行天皇十二年(壬午82)十二月丁酉《五》
 「爰從兵一人進殺熊襲梟帥。天皇則惡其不孝之甚而誅市乾鹿文。仍以弟市鹿文賜於火國造。」
景行天皇十三年(癸未83)五月 「悉平襲國。」
景行天皇十八年(戊子88)六月癸亥《三》 「自高來縣渡玉杵名邑。時殺其處之土蜘蛛津頬焉。」
履中天皇即位前紀 爰仲皇子畏有事、將殺太子。密興兵、圍太子宮。
履中天皇二年(辛丑401)十月 「平羣木莵宿禰。蘇賀滿智宿禰。物部伊莒弗大連。圓大使主共執國事。」
履中天皇四年(癸卯403)八月戊戌 「始之於諸國置國史。記言事達四方志」
允恭天皇即位前紀 「今大王留時逆衆、不正號位、臣等恐、百姓望絶也。願大王雖勞、猶即天皇位。」
允恭天皇元年十二月 「天皇璽符。於是羣臣大喜。即日捧天皇之璽符。再拜上焉。皇子曰・・・乃即帝位」
雄略天皇即位前紀 
「穴穗天皇爲眉輪王見殺・・・逃入圓大臣宅・・・未見君王隱匿臣舍。・・・伏願大王奉獻・・・葛城宅七區・・・」

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