2017年9月4日月曜日

最終兵器のミサ  『宋史』

 前回は『舊唐書』を検討したので、本来は『新唐書』を考えるべきだけど、先に次の王朝の『宋史』の『新唐書』から変えたところをを考えてみようと思う。おおむね2書は同じで日本人が多く訪中したためなのか変更していて、多くの続き柄が削除されて推古天皇の続き柄を記紀どおりにして抜けていた元正天皇らしい皈依天皇を追加している。
けれども、まだかなり違っていて、現代の普通の日本人は間違っていると叫ぶだろうけど、宋時代に『新唐書』を見た日本人は、「天國排開廣庭」や「天豐財重日足姬」は詳しく正確に変えて、多利思比孤を書かないで聖徳太子を新たに追加して書いてもらった、宋時代の日本人の知識が『宋史』に反映されていると考えられる。
『新唐書』→『宋史』
次天安→次孝天皇
次清寧→次清甯
次欽明→天國排開廣庭天皇,亦名欽明天皇
十一年 直梁承聖元年→即位十三年,壬申歲始傳佛法于百濟國,當此土梁承聖元年。
次海達→次敏達
次用明亦曰目多利思比孤 直隋開皇末始與中國通→
次用明天皇,有子曰聖德太子,年三歲,聞十人語,同時解之,七歲悟佛法於菩提寺,講《聖曼經》,天雨曼陀羅華。當此土隋開皇中,遣使泛海至中國,求《法華經》
欽明之孫女雄古立→次推古天皇,欽明天皇之女也
未幾孝德死 其子天豐財立→次天豐財重日足姬天皇
子天武立 死 子總持立→次天武天皇,次持總天皇
其王文武立 改元曰太寶→次文武天皇
文武死 子阿用立 死 子聖武立→次阿閉天皇,次皈依天皇。次聖武天皇,
聖武死 女孝明立→次孝明天皇,聖武天皇之女也
孝明死 大炊立 死 以聖武女高野姫爲王→
次孝明天皇,聖武天皇之女也,次天炊天皇。次高野姬天皇,聖武天皇之女也

ただし、だからと言って聖徳太子は推古天皇の太子ではなくて用明天皇の太子と読める書き方になっていて、中国の資料から大きく外していないので、おそらく『新唐書』から変えていないところはそのままの理解でよく、中国が昔から知っている日本の歴史と考えられる。
すなわち、宋時代は公式な官吏が訪中していないため、日本としては淡海三船の天皇が正式な天皇名で、官吏でない人物の知識を『宋史』は表しているかもしれない。しかし、中国史書の日本古代の理解の最終段階の宋史をみると、日本書紀・続日本紀を知った官吏が中国を訪問して伝えているはずなのにやはり変えていない部分が多いのは、日本の報告を信じていない、中国の持っている資料と異なるとき、中国の資料を信じていることが解る。おそらく、日本人が日本の史書と異なる中国の歴史の間違いを指摘しているにもかかわらず変えていない、中国から見た歴史を記述しているのだ。もちろん、中国に都合の良い歴史であるかもしれないが、それは日本書紀も同じことだけれど、無いことを書くことは無いと思うし、中国の見方は日本に対しては客観的な見方となる。

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