前回は『宋史』を考えることで『新唐書』は『宋史』が修正していないところはそのまま中国の日本に対する理解で、宋になって発見された唐時代の資料を正しいと考えていることが解りました。粟田朝臣眞人・阿倍朝臣仲満・橘免勢・空海達が訪中して、特に
阿倍朝臣仲満は唐朝で官吏として働いていて唐側に十分説明しているはずです。高表仁や郭務悰等の報告を確認していると思われ、しかも、対戦相手で間違った情報は許されないので、かえって『宋史』の変更のほうが間違って日本の言い分を採用している可能性がある。
『新唐書』
「長安元年 其王文武立 改元曰太寶 遣朝臣眞人粟田貢方物・・・其副朝臣仲満慕華不肯去 易姓名曰朝衡・・・貞元末 其王曰桓武 遣使者朝 其學子橘免勢 浮屠空海願留肄業
橘免勢等が淡海三船が付けた天皇名を唐側に説明し親子関係や中国資料にある「多利思比孤」や「天豐財」・「總持」、眞人や仲満が伝えたと思われる内容と「阿用」・「孝明」・「高野姫」を付け合わせたと思われる。けれど、やはり旧唐書での印象と同じで里単位も疑っているけれど修正されていないとゆうことは日本の使者に影響されないで多くを唐の資料どうりに書いているようだ。
『新唐書』
不以情故疑焉 又妄夸其國都方數千里
唐の資料では淡海三船の名付けた天皇名はよくわからないけれど、神功は卑弥呼と理解して宮天皇としては開化天皇の「曽孫女」だ、欽明にあてられている天皇11年が承聖元年だったことを知っている。用明天皇にあたるときは「多利思比孤」が王だった、孝徳天皇と呼ばれている人物が天皇の時白雉と改元してすぐになく亡ってその子が即位して、その天皇の名前は良く知っている「天豐財」だった。
そして、「天豐財」の子の天智が天皇になって次は天智の子の天武さらに總持とつながったけれど、血縁関係がない文武が天皇になって代がつながって孝明まで継った。そして、血縁関係がない大炊が立ったけれど、死んだので聖武の娘の高野姫が天皇になったと書いている。
『新唐書』
仲哀死 以開化曽孫女神功爲王・・・欽明之十一年 直梁承聖元年 次海達 次用明亦曰目多利思比孤・・・
永徽初 其王孝德即位改元曰白雉・・・未幾孝德死 其子天豐財立 死 子天智立・・・天智死 子天武立 死 子總持立・・・長安元年 其王文武立 改元曰太寶・・・文武死 子阿用立 死 子聖武立・・・聖武死 女孝明立
・・・孝明死 大炊立 死 以聖武女高野姫爲王 死 白壁立
孝徳天皇が本当に「天萬豊日」か不明で、「最終兵器のミサ 『舊唐書』」で書いたように654年の知識か664年の知識かどちらかが考えられる。けれど、唐は654年の天皇を倭とも日本とも違う王朝と認識していて、皇極天皇との血縁を持たせていない。けれど「天豐財」を子として王朝が交代したか唐の範疇外の母親だったからとゆうことと思える。
以降は總持または持總天皇まで親子相続で、文武天皇が血縁無しで即位して孝明天皇まで親子相続として高野姫が1代空いて即位している。けれど孝明天皇と別人と書いていて、母親相続と重祚が唐では範疇外の相続だったのか唐の資料と合っていなかったようだ。
すなわち、唐は646年の遣使で推古天皇の続き柄を知って皇極天皇までは倭国と理解して孝徳天皇から後に日本と国名を付けた違う王朝が總持天皇まで続いてさらに日本は王朝が交代したと理解していることが解る。650年から670年、特に孝徳天皇ととらえている650年から664年の郭務悰来日までがあやふやになっている。
とゆうことは、孝徳天皇は倭国と別国だけど天智天皇と同じ系図上の人物と捉えていて、これは、岡本宮天皇(吉備姫・田村皇子・天豊財・天萬豊日)を後に淡海三船が命名した孝徳天皇と唐が理解した。この期間に白雉改元があったけれどこの改元は実際は蘇我氏が行った倭を引き継いだとゆう別王朝で、664年に
天萬豊日が政権を奪った。けれどすぐに亡くなって
天豊財が即位して中国に渡って668年に天智天皇が即位して倭国を捨てて日本国と国名を変えた。
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