2017年9月15日金曜日

最終兵器の日本古代史 東鯷国

 素戔嗚は出雲に侵略する時すでに出雲には高志の支配下で主や耳を官名に持つ稲田宮主須賀之八耳がいて、その支配者は「八岐大蛇」で「壱岐・隠岐」と同じ「八岐」すなわち八国・東鯷国の支配下の人物だ。そして、天忍穂耳が後に耳が付くことで分かるように、東鯷国の支配下の隠岐の島に残る分家大己貴から出雲を奪って天穂日が後を継いで、天津彦根が山代・川内に侵略した。この説話はおそらく大物主からみた神話で、実際は先代旧事本紀の天香語山と饒速日・宇摩志麻治が東鯷国を滅亡させ神倭国を建国したと考えられる。
『古事記』
「天菩比命之子、建比良鳥命、此、出雲国造・无耶志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津島県直・遠江国造等之祖也」
「天津日子根命者、凡川内国造・額田部湯坐連・茨木国造・倭田中直・山代国造・馬来田国造・道尻岐閉国造・周芳国造・倭淹知造・高市県主・蒲生稲寸・三枝部造等之祖也」
「自本在八稚女、是、高志之八俣遠呂知・・・負名号稲田宮主須賀之八耳神」
『日本書紀』
「往時吾兒有八箇少女。毎年爲八岐大蛇所呑。・・・曰稻田宮主神」
「天穂日命 是出雲臣 土師連等祖也 次天津彦根命 是凡川内直 山代直等祖也」
『先代旧事本紀』
饒速日尊襄天神御祖詔乗天磐舩而天降坐於河內國河上哮峯則遷大倭國鳥見白山」

すなわち、淤能碁呂島と呼ばれた隠岐の島の島後の「八尋殿」に八国を打ち立てた伊弉神の末裔の八上比売の八国を大穴牟遅は得て、「八十神」から出雲・伯岐国・木国・根堅州国、古志さらに「六合」の支配者大日孁貴から宗像をも奪い、事代主・大物主達の領域も得て東鯷国とした。この歴史が大穴牟遅・素戔嗚・大国主から大田田根子までのことで、『先代旧事本紀』と日本書紀では崇神(11世)より2世代前(9世)と違っていて、孝元天皇の時代だ。神武天皇の名は「神倭伊波礼毘古」・綏靖天皇の名が「神沼河耳」、と神国の配下の名を持ち新羅王おそらく「婆娑尼師今」が西暦80年に「神国が東にある」と言っていて、おそらく、以前神国と言い現在日本と言っている国があるということだ。
『日本書紀』
神功皇后摂政前紀仲哀天皇九年十月辛丑 
「讋焉失志 乃今醒之曰 吾聞 東有神國 謂日本 亦有聖王 謂天皇 必其國之神兵也」

おそらく、紀元前90年に天香語山の子孫の神倭国の瀛津世襲がまず大坂を破り、東鯷国を滅亡させたのが天菩比や天津日子根の子孫・大物主の子孫の大彦達の4道侵攻と樟葉の戦いで完全に東鯷国は滅んで大倭国となった。
『古事記』
「引上時 自其矛末垂落塩之累積成島 是淤能碁呂島・・・其島天降坐而、見立天之御柱、見立八尋殿」
「八上比売、答八十神言、吾者不聞汝等之言、将嫁大穴牟遅神。」
『日本書紀』
「號大日孁貴・・・此子光華明彩 照徹於六合之内」

また、事代主が支配していた筑紫では3世紀頃まで伊都国が一大率を置いて壱岐を支配していたということは少なくとも3世紀までは高千穂宮に一大率を置いた王家があって「伍佰捌拾」年近く経っていた。とゆうことは、紀元前3世紀以降(紀元前200年頃)に伊都国へ天孫が天降ったことを意味していて、東鯷国の事代主から天氏は伊都国を奪って紀元前183に「若御毛沼」が太祖神社がある篠栗町に「委」国(猪野国)を建国した。
『古事記』
日子穂ゝ手見命者、坐高千穂宮、伍佰捌拾歳。
『三国志』
「自女王國以北特置一大率檢察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺史」

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