2017年9月20日水曜日

最終兵器の日本古代史 考古遺物2

 そして、アカホヤ後に大量に南九州の人々、すなわち、日本書紀の神話を作った人々は対馬海流近辺の島々を拠点に中国からコメ・沖縄からゴウホラ・佐渡を拠点にコールタールやヒスイを流通させた。垂仁天皇の時代の済州島(常世国)から高麗橘を島根県に持ってきたように、10年かけて栽培方法を習得していることから、稲の栽培も同じように長年かけて習得して日本に持ち帰ったのだろう。もちろん、7千年前頃からは中国でも船が出土していて、稲を持ち込んだ可能性を否定できないが、周時代に倭人が訪中しており、考古物の中国の直接的影響の少なさを考えるとどうかと思う。また、朝鮮経由は生化学的論証で否定されてしまい、しかも朝鮮南部は縄文土器の時代から同じ文化圏であり、朝鮮半島経由を主張する理由がよくわからないし、朝鮮の古代史学を再検討する必要があるかもしれない。縄文人は弥生人の「大八島」の対岸の遠賀川式土器を使用する八国の支配者であり、銅矛の事代主や銅剣の大物主の地域を支配した狗奴国や20国を束ねる銅鐸の東鯷国、他合わせて120国程度を支配していたと思われる。弥生人の男性が縄文人の支配者の女性を娶ってその子に統治させるという手法で急速に弥生人化させたのだろう。速素戔嗚はおそらく隼人の「速」で隠岐の沖ノ島()から島後の天照大神を娶ってその子たちが国を形作っていくのと同じ手法で、女系社会だった縄文人の弱点によって弥生人が日本社会で大勢となった。そして、瓊瓊杵が天降ったときも、神武が建国した時もすでにその国は豊国の瑞穗を見渡せる国で、事代主が支配した地域はすでに水田を営んでいた。その稲作地の人々は、支石墓を残した人々で縄文人であり、菜畑遺跡と同じ模様の土器が出土する江辻遺跡は環濠集落があり、環濠集落がある江辻遺跡近くの板付遺跡の水田遺構というように瓊瓊杵が天降ったときに水田があったことを示している。なお、稲の朝鮮からの流入を論証するため松菊里型住居を使っているが、松菊里型住居より以前に稲は日本に流入し、松菊里遺跡には水田の遺構はないし、江辻遺跡のほうが土器を見る限り松菊里遺跡より早い。
『日本書紀』
神武天皇即位前紀 「昔我天神高皇産靈尊、大日孁尊,舉此豐葦原瑞穗國,而授我天祖彦火瓊瓊杵尊」

支配者が変われば遺物が変わるのは当然で、東鯷国が滅びた時銅鐸が消え、大倭国が滅びた後は鏡の埋納から巨大前方後円墳と埴輪そして横穴石室が登場する。倭国が登場すると甕棺が消え石室に変わり、倭国が筑後方面に拡大すると横穴石室も拡大し、さらに全国規模となった。私は今、前方後円墳の後、寺を宗廟としたように、九州の倭政権は神社を宗廟とした政権ではないかと妄想している。神社は王家の屋敷としては狭すぎる気がして、那珂八幡や宮地嶽の神社に古墳が、岩戸山古墳には吉田大神宮が有る様に鎮守の杜が王家の陵墓なのでは。香椎宮や箱崎宮が卑弥呼や台与の陵墓では、志賀海神社が金印を貰った王の陵墓、太祖神社が筑紫倭国の創始者の陵墓ではないか、宗廟なら墓は破壊されても宮は残る可能性があると考えたかと。

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