「先代旧事本紀」で神武天皇は三輪大神の女を皇后としたということは、この神武天皇は「神倭国」の王者になったということで、宇摩志麻治が「先代旧事本紀」を記述している時代では大臣・大連と同等だと大夫を記述して、その大夫に宇摩志麻治が就任した。すなわち、東鯷国は周朝の慣例通り「大夫」を東鯷国の王、配下の王を「足尼」と呼んでいたので、「饒速日」と東鯷国の女王「炊屋姫」の子「宇摩志麻治」が王となって「神倭国」を建国したが、神域の三輪山はすでに大物主に奪われてしまっていたようで、それが日本書紀の神武東侵だ。『先代旧事本紀』は大物主と同じ時代に当て「饒速日」が神武天皇、「宇摩志麻治」を「手研耳」に当てはめ、もちろん「手研耳」も神武天皇にあたる。
『先代旧事本紀』
「天祖以天璽瑞寶十種授饒速日尊」
「饒速日尊以夢教於妻御炊屋姬云汝子如吾形見物即天璽瑞寶矣」
「中州豪雄長髄彦本推饒速日尊兒宇摩志麻治命爲君」
「饒速日尊以夢教於妻御炊屋姬云汝子如吾形見物即天璽瑞寶矣」
「宇摩志麻治命以天神御祖饒速日尊天璽瑞寶十種壹而奉獻於天孫大嘉特増寵異矣」
「宇摩志麻治命與大神君祖天日方奇日方命並拜為申食國政大夫也其天日方奇日方命者皇后之兄也」
「此命葛󠄀城髙丘宮御宇天皇御世元為足尼次寵為申食國政大夫奉齋大神」
「即皇位尊正妃媛鞴五十鈴媛命立為皇后則大三輪大神女也」
神倭国は紀元前94年に即位し、東鯷国の神域の三輪山を取り戻して、古事記では大物主と変更しているが、意富多ゝ泥古の故地河内は神武東征すなわち大物主の東征で敗れた地域、すなわち、東鯷国の領地で河内の神は大物主ではなく大三輪神だ。さらに、東鯷国の神をも祀って支配下の民を懐柔して政権をを安定させようとした。大彦によって紀元前88年に長髄彦の東鯷国が滅亡し、紀元前26年に「饒速日」の直系の「瀛津世襲」に王位を奪取され、「大倭国」と国名が変わり、物部氏は皇位を譲って大祢や大尼に降格されたが石上神宮を任され日本書紀上の物部氏による大連が始まり、石上神宮ができて87年目だったようだ。
『先代旧事本紀』
「大綜杵命此命輕境原宮御宇天皇御世為大祢春日率川宮御宇天皇御世爲大臣則皇后大臣齋大神髙屋阿波良姫爲妻生二兒弟大峯大尼 此命者春日宮御宇天皇御世爲大尼供奉其大尼之起始發此時矣」
「同天皇御世即經八十七年五十瓊敷倉皇子命謂妹大中姬命日我老也不能・・・遂大中姬命遂授物部十市大連而令冶石上神寶盖是其縁也」
「八世孫物部武諸遇大連公 此連公磯城瑞籬宮御宇天皇即位六十年詔群臣日武日照命從天将來神寶藏于出雲大神宮是欲見焉則遣矢田部造遠祖武諸遇命 使分明檢定獻奉復命之時乃爲大連奉齋神宮」
『日本書紀』
崇神天皇四年十月壬午 「今朕奉承大運 愛育黎元 何當聿遵皇祖之跡 永保無窮之祚」
崇神天皇九年四月己酉 「依夢之教 祭墨坂神 大坂神」
崇神天皇十年九月甲午 「以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。丹波道主命遣丹波」
崇神天皇十年九月壬子 「是武埴安彦將謀反之表者也。」
垂仁天皇四年九月戊申 「皇后母兄狹穗彦王謀反欲危社稷」
垂仁天皇二五年三月丁亥 「則仰中臣連祖探湯主而卜之 誰人以令祭大倭大神」
垂仁天皇三九年十月
「作劔一千口。因名其劒謂川上部・・・藏于石上神宮也。是後命五十瓊敷命。俾主石上神宮之神寶」
『古事記』
「天皇、大歓以詔之、天下平、人民栄、即以意富多ゝ泥古命、為神主而、於御諸山拝祭意富美和之大神前」
神倭国は紀元前88年には3道侵攻で丹波・北陸・東海を支配下にして、天氏に独占されていた海洋の流通を取り入れようと紀元前81年より船を作り、紀元前50年には毛野国を配下にし、河内の狭山で紀元前36年には自然の沼地に種を播く農法だったが、農地を整備し灌漑のため池を作った。
崇神天皇十七年十月 「始造船舶。」
崇神天皇四八年四月丙寅 「以豐城命令治東國。是上毛野君。下毛野君之始祖也。」
崇神天皇六二年七月丙辰 「今河内狹山埴田水少。是以。其國百姓怠於農於農事。其多開池溝。以寛民業」
崇神天皇六二年十一月 「作苅坂池 反折池 一云 天皇居桑間宮造是三池也」
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