2017年9月18日月曜日

最終兵器の日本古代史 考古遺物1

 神話を裏付けるものが石器や土器などの遺跡で、日本では1万数千年前、1万4千年前に氷河期が終わって歩いて大陸との交流が出来なくなってから世界で一番古い丸ノミ石斧が鹿児島県で発掘(栫ノ原遺跡)されている。この磨製石器は船を作るのに必需品で、8000年前からできた対馬海流や黒潮などを横断するには船がなくては横切れず、筏では舵が利かずに命を落とすしかない。西暦300年頃ですら精鋭の軍艦の日本侵攻が無謀と諦めている。『三國史記』のように、集団で日本に侵略することは不可能で、不慣れな人物が1艘日本に流れ着くことは幸運なことだった。従って騎馬民族説など有り得ない話で、もちろん弥生人の大量移入なども中国では周の時代から倭人を認識していてあり得ない。丸木船だから海を渡れないとの議論があるけれど、1万年前頃に既に同じ縄文土器を共有して隠岐の島との交流が見て取れる。
『三國史記』 卷第二 新羅本紀第二  儒禮尼師今
十二年 春 王謂臣下曰 倭人屢犯我城邑 ・・・吾人不習水戰 冒險遠征 恐有不測之危

日本語はもっとも古い言語で、日本列島に大陸と陸続きだったころに流入した人間が大陸から切り離されて海流という防衛線のおかげで他民族の流入を阻止し、流入の簡単な北海道と沖縄では他民族の影響が起こったと考えるべきだと思う。三国志では日本に侏儒国があったと複数の民族の存在を示していて、複数の民族の淘汰が起こって最終的に蝦夷と弥生人から混血弥生人へと統合された。そうでなければ、近縁言語が南方の島や北方の偏狭にしか無い理由が見つからない。言語はコミュニケーションのツールなのだから、より多くの人々と共有する物であって、後から流入した民族なら近縁の言語が流路に幾つかあったはずである。
『三国志』 又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘里

そして、中国の船の出土は7千年前に有ったようだが、それより以前の海を使った交流状況からみると、よくわかっていないが、日本国内では先に記述したように実績がある。従って、日本の漆が見つかっている河姆渡遺跡との交流は日本からの一方通行と考えるべきで、河姆渡遺跡から少し遅れて日本各地でコメのもみ殻の圧痕(熊本大矢遺跡・5千年前)やプラントオパール(岡山県彦崎貝塚・6千年前)が見つかっている。一方通行で無かったのなら、多くの地域に広まったアンダーソン土器(5千年前)が日本に入らないはずがない。その背景が鹿児島近辺の造船で、鹿児島近辺のアカホヤ(7.3千年前)も原因したのか土器(轟B・曽畑式)が九州西岸→朝鮮・島根→瀬戸内海と広まり、朝鮮南部は同一文化圏となり、船も出土している。さらに、大八島と呼ばれる島々にも縄文土器が出土している。さらに、轟B土器より古いアカホヤ以前の条痕文土器(7500年前)や爪形文土器(約11000前)が隠岐の島宮尾(みやび)遺跡や島根県の佐太講武貝塚で南九州と似た土器が出土し、南九州の人物が8000年前の対馬海流の分岐をきっかけに隠岐の島に移り住み、イザナミは島根の人物と考えられクジラの神の国産み神話を連想させる。ちなみに、平戸には7千年前のクジラ漁に必要な石器が大量に出土したつぐめのはな遺跡があり、アカホヤ以前にクジラを神と考えている可能性がある。

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