2017年9月8日金曜日

最終兵器のミサ ミサの終わり

 これまで、今の古代史は大間違いでその原因は記紀をはじめ何でもかんでも偽書だの間違いだのと言ってしっかり究明しないで、自分に都合の良い理論のみをかき集めてきて自分の理論が正しいと論証しているのだ。けれど、都合の良い理論も同じ背景だから自分の理論で批判した理論を基に創られた理論をもとに新しい理論を築いてきていることを全く意識しない矛盾だらけの理論を発表している。もちろん、これはまだましで、理論も何もなしで、現代の事象をもとに、過去にもあったに違いない、地域の民間伝承を持ち出して、これは高名な人物のことだと我田引水の妄想を言う人物もいるけれど、個人が思うだけで議論がひろがらない。邪馬台国論争などはその代表で、間違いの三国志をもとに議論してもまとまるはずが無く、言い放つだけになってしまっているが、三国志が間違いでないとすれば、距離はすぐに決まるし、方向が違うということなら、自分の考えている場所を三国志に合わせて比定すればいい。そこで、どうしても矛盾が有れば、他の証拠と合わせて仮説を出せばよいのだ。私にとっては、日本書紀から既に邪馬台国の位置は推定出来ていて、三国志とも甕棺の出土状況とも矛盾が無かった。
どんな古代史の理論も記紀を使わなければ説明できないのだけれどすべての古代史学者は記紀は8世紀の官吏の造作であてにできないと言っておきながら、継体天皇からは正しいなどと言って自分に都合の良いところだけ正しいとする、そんな都合の良い論証がまかり通っているのが古代史学者だ。
都合の悪いところは日本書紀と違っていても官吏の作り物だから違っていてもよい、ここは日本書紀も間違いばかりではなくて資料が有ったのだろうと、資料が有るので8世紀の作り物じゃないと言っているのと同じじゃないかと言わなきゃならないのにそれには無言で、現に資料がないところは何も書いてないと私は主張している。
作り物なら遠慮しないで欠史8代など作らないで適当に中国に行った話を書けば良いのに書いていなのは全部資料を基に日本書紀を書いた証拠だ。日本書紀には何度も「史書を書いた」と書いてあることをミサで書いて、それに合わせて璽が動いて、論旨としては8世紀に書いたグループのつもりだろうが日本書紀の書いた人物も「違う人物が書いていた」と日本書紀を分析した森博達を紹介した。
私は、記紀を含めてすべて間違いではなくて、もともと日本の史書は古事記や先代旧事本紀のように紀伝体・列伝で書かれていたものを、天氏の宮の時計に当てはめて、列伝を同時代の人物と合わせて並べて後ろに天氏や中臣氏の天皇を付け加えて干支を振りなおしたものが日本書紀だと言ってきた。
そして、それに合わせるように考古学資料も私の説に合い、日本書紀も普通に読むと矛盾だらけだったのが私の説で読み替えると矛盾とされるところが合ってしまって、日本書紀も私の説を支持した。そして、残る矛盾も、時代の違う列伝を入れ込んだことによる矛盾だということが解った。
私は1つも突飛な説を考えて構築していなくて、古事記の序文の矛盾の飛鳥浄御原天皇から飛鳥浄御原天皇への政権交代があって続日本紀の704年の藤原定都で695年の遷都が無かったことが解ったことから始まった。
学校で習った古代史のいい加減さ、多くの本を読み漁ったときの虚しさ、古田氏の『邪馬台国は無かった』で読んだ感動とその後の『盗まれた神話』からの古田氏も古典を信じていなかったことの無念さ、古田氏への質問のはぐらかすだけの底の浅い返答にまた絶望感を持った。
そこから人を当てにしないで古典を原文で読んでみようと発起してインターネットの発達にも助けられて今までの現代語訳の大ウソを知って愕然としたと同時に日本書紀をはじめすべての古典や金石文が私に訴えかけてくるようになって、古代史が生き生きとよみがえってきた。
それらの訴えを「ミサ」にいままで書いてきたので、今度は古代史通史に挑戦してみようと思う。

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