2021年3月3日水曜日

最終兵器の目 持統天皇4

  日本書紀 慶長版は

三年春正月甲寅朔天皇朝万國于前殿乙夘大學寮獻杖八十枚丙辰詔曰務大肆陸奧國優𡺸曇郡城養蝦夷脂利古男麻呂與鐵折請剔鬢髮爲沙門詔曰麻呂等少而閑雅寡欲遂至於此蔬食持戒可隨所請出家修道庚申宴公卿賜袍袴辛酉新羅使人田中朝臣法麻呂等還自新羅壬戌詔出雲國司上送遭値風浪蕃人是日賜越蝦夷沙門道信佛像一軀灌頂幡鍾鉢各一口五色綵各五尺綿五屯布一十端鍬一十枚鞍一具筑紫大宰粟田真人朝臣等獻隼人一百七十四人幷布五十常牛皮六枚鹿皮五十挍戊辰文武官人進薪己巳賜百官人等食辛未天皇幸吉野宮甲戌天皇至自吉野宮二月甲申朔丙申詔筑紫防人滿年限者替已酉以淨廣肆竹田王直廣肆土師宿祢根磨大宅朝臣麿藤原朝臣史務大肆當麻真人櫻井穗積朝臣山守中臣臣麿巨勢朝臣多益湏大三輪朝臣安麿爲判事三月癸丑朔丙子大赦天下唯常赦所不免不在赦例夏四月癸未朔庚寅以投化新羅人居于下毛野乙未皇太子草壁皇子尊薨壬寅新羅遣級飡金道那等奉吊瀛真人天皇喪幷上送學問僧明聦觀智等別獻金銅阿弥陀像金銅觀世音菩薩像大勢至菩薩像各一軀綵帛錦綾甲辰春日王薨巳酉詔諸司仕丁一月放假四日五月癸刄(丑)朔甲戌命土師宿祢根麻呂詔新羅吊使級飡金道那等曰太政官卿等奉勅奉?()二年遣田中朝臣法麿等相告大行天皇喪時新羅言新羅奉勅人者元來用蘇判位今將復爾由是法麿等不得奉宣赴告之詔若言前事者在昔難波宮洽天下天皇崩時遣巨勢稻持等告喪之日翳飡金春秋奉勅而言用蘇判奉勅即違前事也又於近江宮洽(治)天下天皇崩時遣一告飡金薩儒等奉吊而今以級飡奉吊亦遣前事又新羅元來奏云我國自日本遠皇祖代並舳不干檝奉仕之國而今一艘亦乖故典也又奏云自日本遠皇祖代以清白心仕奉而不惟竭忠宣揚本職而傷清白詐求幸媚是故調賦與別獻並封以還之然自我國家遠皇祖代廣慈汝等之德不可絶之故弥勤弥謹戰々兢々修其職任奉遵法度者天朝復益廣慈耳汝道那等奉斯所勅奉宣汝王

【三年の春正月の甲寅が朔のの日に、天皇は、大極殿で全国の朝拝を受けた。乙卯の日に、大学寮は杖を八十枚献上した。丙辰の日に、務大肆の陸奧国の優曇の郡の城養の蝦夷の脂利古の男子の麻呂と鐵折を、髭と髪を剃って僧になるよう願い出た。「麻呂達は、幼少でも上品で欲がない。それでここに至って、採食で戒律を守っている。願いのままに、出家し仏門に入りなさい」と詔勅した。庚申の日に、公卿と宴会してきぬ袴を与えた。辛酉の日に、新羅への使者の田中の朝臣の法麻呂達が、新羅から帰った。壬戌の日に、出雲の国司に詔勅して、暴風に遭遇した国の人を帰国させた。この日に、越の蝦夷の僧の道信に、佛像を一躯、潅頂幡・鍾・鉢各々一口、五色の織物各々五尺、綿五屯、布一十端、鍬十枚、鞍一具を与えた。筑紫の大宰の粟田の眞人の朝臣達は、隼人百七十四人とあわせて布五十常、牛皮六枚、鹿皮五十枚を献上した。戊辰の日に、文官・武官達に、薪を進上した。己巳の日に、官僚達に食事を与えた。辛未の日に、天皇は吉野の宮に行幸した。甲戌の日に、天皇は吉野の宮から帰った。二月の甲申が朔の丙申の日に、「筑紫の防人は年期の期限になったら交代させなさい」と詔勅した。己酉の日に、淨廣肆の竹田王・直廣肆の土師の宿禰の根麻呂・大宅の朝臣の麻呂・藤原の朝臣の史・務大肆の當麻の眞人の櫻井と、穗積の朝臣の山守・中臣の朝臣の臣麻呂・巨勢の朝臣の多益須・大三輪の朝臣の安麻呂を、判事とした。三月の癸丑が朔の丙子の日に、大赦を発令した。ただし重罪の 常赦不免の罪は、大赦に含めない。夏四月の癸未が朔の庚寅の日に、帰化した新羅人を、下毛野に居住させた。乙未の日に、皇太子の草壁皇子尊が薨じた。壬寅の日に、新羅、級飡の金道那達を派遣して、瀛眞人天皇の喪を弔った。あわせて学問僧の明聰・觀智達を送った。別に金銅の阿彌陀像・金銅の觀世音菩薩像・大勢至菩薩像、各々一躯、あやぎぬ・錦・綾を献上した。甲辰の日に、春日王が薨じた。己酉の日に、詔勅して、役所の雑役夫に、一月に四日の休暇を許可した。五月の癸丑が朔の甲戌の日に、土師の宿禰の根麻呂に命じて新羅の弔使の級飡の金道那達に「太政官の公卿達が、詔勅を聞いて言うことに、二年に、田中の朝臣の法麻呂達を派遣して、大行天皇の喪をそれぞれ告げさせた。その時に新羅が『新羅では、詔勅を承ける人は、元来、蘇判の位の者を用いる。いままた、そのようにしたい』と言った。これで、法麻呂達は、赴いて告げる詔勅を宣下出来なかった。もし前の事を言うなら、昔、難波の宮の治天下天皇が崩じた時に、巨勢の稻持達を派遣して、喪を告げる日に、翳飡の金春秋が詔勅を承けた。しかしながら蘇判を用て詔勅を承けると言うのは、すなわち前の事と異なる。また近江の宮の治天下天皇が崩じた時に、一吉飡の金薩需達を派遣して弔いを受けさせた。それなのに今、級飡に弔い承けるのは、また前の事例と違う。また新羅は元来奏上して、『我が国は、日本の天皇の遠祖の代から、舳を何艘も並べてかいを乾かさず奉仕してきた国だ』と言う。それなのに今たった一艘のみなのは、また古い決まりと違う。又、『日本の天皇の遠祖の代から、汚れがない心で仕えてきた』と奏上した。忠心なく本当の職務を言おうともしない。しかも汚れがない心をやめて、媚びてだまして利益を求めた。それで、年貢と別に献上物を、一緒に括って返そう。しかしながら我が国家の天皇の遠祖の代から、広くお前たちをいつくしむ徳を絶やしてはならない。それで、ますます勤めますます謹み、恐れつつしんで、その職務任務を修めて法に遵い、奉公する者に対して、朝廷は、心を広くして慈しむ。お前道那達は、この詔勅の内容を承けて、お前の王に伝えなさい」と詔勅した。】とあり、三月癸丑朔は2月30日、五月癸丑朔は5月2日でそれ以外は標準陰暦に合致する。

五月癸丑朔は704年の5月1日が癸丑のことで、持統三年二月「直廣肆土師宿禰根麿」、文武三年十月直廣參土師宿祢根麻呂・・・於越智山陵」、大宝三年四月「奉爲太上天皇設百曰齋於御在所」、大宝三年二月「是日當太上天皇七七」、大宝三年十月「任太上天皇御葬司」と同じ葬礼を記述していると思われる。

文武天皇は皇位を奪取した人物なのだから、文武天皇にとっての太上天皇とは親子関係がない大化建元した天武天皇を示し、新羅の使者も文武天皇に政権が移行し、親中の『新唐書』のように新羅の敵国唐に認められている總持天皇を新羅より下位の政権と考えた結果なのだろうか。

田中朝臣法麻呂は持統五年「伊豫國司」、文武三年「直大肆田中朝臣法麻呂判官四人」と冠位が職位と矛盾が有り、冠位を記述されない地方官の伊予国司が出世して冠位がある判官、外交官に出世したと考えられ、『続日本紀』の文武四年に「以直廣肆佐伯宿祢麻呂爲遣新羅大使」と、同等の冠位で、唐と対等と考える新羅も従来通りの「遣大唐押使大錦上高向史玄理」と比べて下位の官僚の使者に対して不満を持ったと考えられる。

そして、大伴宿祢安麻呂などの冠位の変遷は不比等にも見られ、689年持統三年の16位「直廣肆土師宿禰根麿大宅朝臣麿藤原朝臣史」、696年持統十年に「直廣貳藤原朝臣不比等」と12位、700年文武四年「直廣壹藤原朝臣不比等」と10位、大宝元年正月まで「直廣壹藤原朝臣不比等」が大宝元年三月に「直廣壹藤原朝臣不比等正正三位」と5位に大出世し、708年和銅元年には「從二位藤原朝臣不比等並正二位」と臣下としては3番目の最高位に出世して720年に死亡した冠位変遷が前項の大伴宿祢安麻呂と類似し、政権交代の立役者最有力とみることが出来る。

すなわち、大宝建元前夜の2月末から3月20日までに不比等らによる政権交代があったことを示している。

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