日本書紀 慶長版は
「七月庚午朔壬申天皇幸吉野宮是日伊豫國司田中朝臣法麻呂等獻宇和郡御馬山白銀(銅)三斤八兩?(金非)一籠丙子宴公卿仍賜朝服辛巳天皇至自吉野甲申遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神八月巳亥朔辛亥詔十八氏(大三輪雀部石上藤原石川巨勢膳部春日上毛野大伴紀阿倍佐伯采女穗積阿曇伊平群羽田)上進其祖等墓記辛酉遣使者祭龍田風神信濃湏波水內等神九月己巳朔壬申賜音博士大唐續守言薩弘恪書博士百濟末士善信銀人二十兩丁丒淨大參皇子川嶋薨辛夘以直大貳贈佐伯宿祢大目幷賜賻物冬十月戊戌朔日有蝕之乙巳詔曰凢先皇陵戸者置五戸以上自餘王等有功者置三戸若陵戸不足以百姓?(`死:充)免其傜役三年一替庚戌畿內及諸國置長生地各一千步是日天皇幸吉野宮丁巳天皇至自吉野甲子遣使者鎮祭新益京十一月戊辰大嘗神祗伯中臣朝臣大嶋讀天神壽詞壬辰賜公卿衾乙未饗公卿以下至主典幷賜絹等各有差丁酉饗神祗官長上以下至神部等及供奉播磨國因幡國郡司以下至百姓男女幷賜絹等各有差十二月戊戌朔巳亥賜醫博士務大參德自珍呪禁博士木素丁武沙宅万首銀人二十兩乙巳詔曰賜右大臣宅地四町直廣貳以上二町大參以下一町勤以下至無位隨其戸口其上戸一町中戸半町下戸四分之一王等亦准此」
【秋七月の庚午が朔の壬申の日に、天皇は、吉野の宮に行幸した。この日に、伊豫の国司の田中の朝臣の法麻呂達が、宇和の郡の御馬山の白銀三斤八両・鉱石一篭を献上した。丙子の日に、公卿の為に宴会を開いた。それで朝服を与えた。辛巳の日に、天皇は、吉野から帰った。甲申の日に、使者を派遣して廣瀬の大忌神と龍田の風神とをお祭りした。八月の己亥が朔の辛亥の日に、十八の氏(大三輪・雀部・石上・藤原・石川・巨勢・膳部・春日・上毛野・大伴・紀伊・平群・羽田・阿倍・佐伯・采女・穗積・阿曇)に詔勅して、その先代達の墓記を上進させた。辛酉の日に、使者を派遣して龍田の風神、信濃の須波、水内等の神をお祭りさせた。九月の己巳が朔の壬申の日に、音の博士の大唐の續守言・薩弘恪、書の博士の百済の末子の善信に、銀、人毎ごとに二十両与えた。丁丑の日に、淨大參の皇子の川嶋が薨じた。辛卯の日に、直大貳を、佐伯の宿禰の大目に贈った。あはせて弔って、その遺族に物を贈った。冬十月の戊戌が朔の日に、日蝕があった。乙巳の日に、「全ての先皇の陵墓の保守は、五戸以上を置きなさい。これ以外の王達の、功績が有った者には三戸を置き、もし陵墓の保守が足りなかったら、百姓を充て、その強制労働を免除し、三年に一度交代させなさい」と詔勅した。庚戌の日に、畿内及び諸国に、禁漁地を、各々千歩を置きなさい。この日に、天皇は、吉野の宮に行幸した。丁巳の日に、天皇が吉野から帰った。甲子の日に、使者を派遣して条坊制の京の地鎮祭を行った。十一月の戊辰の日に、大嘗祭を行った。神祇伯の中臣の朝臣の大嶋は、天神の祝いの言葉を読んだ。壬辰の日に、公卿に衣食を与えた。乙未の日に、公卿より下主典までを饗応した。あわせて絹等を各々差をつけて与えた。丁酉の日に、神祇官の年長者以下、神部達まで、および、お供の行列に加わる播磨・因幡の国の郡司以下、百姓の男女に至るまで饗応し、あわせて絹等を各々差をつけて与えた。十二月の戊戌が朔の己亥の日に、薬草の博士の務大參の徳自珍・まじないの博士の木素丁武・沙宅の萬首に、銀、人毎に二十両与えた。乙巳の日に「右大臣に邸宅の土地四町。直廣貳以上には二町。大參以下には一町。勤以下、無位に至るまでは、その戸数にしたがって、その上戸には一町、中戸には半町、下戸には四分の一、王達もこれにならって与えよ」と詔勅した。】とあり、十二月戊戌は12月2日で前月が小の月で大の月なら標準陰暦と合致し、他は標準陰暦と合致する。
十八氏の墓記を収集したと記述しているが、その片鱗を見せるのが『先代舊事本紀』で、「物部雄君連公・・・飛鳥浄御原宮御宇天皇御世賜氏上内大紫冠位」は天武天皇五年に「物部雄君連忽發病而卒」と、君は守屋の子で、御狩の子の同世代の物部大人に雄君の娘が嫁ぎ、守屋の死亡が630年頃30代位でないと計算が合わず、守屋が587年に死亡したことが否定される。
また、「孫物部連公麻侶・・・淨御原朝御世天下万姓改定八色之日改連公賜物部朝臣姓同御世改賜石上朝臣姓」と合致するが、『続日本紀』に717年養老元年「左大臣正二位石上朝臣麻呂薨。年七十八・・・難波朝衛部大華上宇麻乃之子也」と矛盾がなさそうだが、『先代舊事本紀』に「物部連公麻侶馬古連公之子」、「孫物部馬古連公目大連之子」、「物部雄君・・・物部目大連女豊媛爲妻生二兒」と記述されたように、雄君と馬古連が同年代と考えられ、淨御原朝と難波朝はもっと接近した年代ということが解る。
同じ事が、『続日本紀』の713年和銅六年に「石川朝臣宮麻呂薨近江朝大臣大紫連子之第五男也」の記事が有るが、初出が703年大宝三年「正五位下石川朝臣宮麻呂」で宮麻呂が660年頃の生まれで、連子は天智天皇三年「大紫蘇我連大臣薨」と30歳代と考えられ、連子は20代で紫冠と大臣を得ている考えられ、まさに入鹿である。
以前、蘇我連大臣は『先代舊事本紀』に「妹物部鎌媛大刀自連公・・・宗我嶋大臣為妻生豊浦大臣名日入鹿連公」、皇極天皇二年「私授紫冠於子入鹿擬大臣位復呼其弟曰物部大臣大臣之祖母物部弓削大連之妹」と記述されていて、(蘇我)物部連大臣と呼んでいたと証明した。
連子の兄弟と言われる赤兄が天智天皇一〇年「大錦上蘇我赤兄臣・・・蘇我赤兄臣爲左大臣」でも約40歳程度の親子差で、赤兄の兄弟連子なら50歳程度の親子差でかなり違和感を感じさせ、赤兄と連子が兄弟でなく、連子が入鹿で、蝦夷大臣が子の入鹿を若くして大紫の大臣と下のならよく合致し、『続日本紀』がそれを追認した、すなわち、蝦夷が大臣を指名する天皇だったことを認めて、乙巳の変が664年にあったことを示している。
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