日本書紀 慶長版は
「五年春正月癸酉朔賜親王諸臣內新王女王內命婦等位巳夘賜公卿飲食衣裳優賜正廣肆百濟王餘禪廣直大肆遠寶良虞與南典各有差乙酉増封皇子髙市二千戸通前三千戸淨廣貳皇子穗積五百戸淨大參川嶋百戸通前五百戸正廣參右大臣丹比嶋真人三百戸通前五百戸正廣肆百濟王禪廣百戸通前二百戸直大壹布勢御主人朝臣與大伴御行宿祢八十戸通前三百戸其餘増封各有差丙戌詔曰直廣肆筑紫史益拜筑紫大宰府典以來於今二十九年矣以清白忠誠不敢怠惰是故賜食封五十戸絁十五匹緜二十五屯布五十端稻五千束戊子天皇幸吉野宮乙未天皇至自吉野宮二月壬寅朔天皇詔公卿等曰卿等於天皇世作佛殿經藏行月六齋天皇時々遺大舍人問訊朕世亦如之故當勤心奉佛法也是日授宮人位記三月壬申朔甲戌宴公卿於西廳丙子天皇觀公私馬於御苑癸已詔曰若有百姓弟爲兄見賣者從良若子爲父母見賣者從賤若准貸倍沒賤者從良其子雖配奴婢所生亦皆從良夏四月辛丑朔詔曰若氏祖時所免奴婢既除籍者其眷族等不得更訟言我奴婢賜大學博士上村主百濟大税一千束以勸其學業也辛亥遣使者祭廣瀬大忌神與龍田風神丙辰天皇幸吉野宮壬戌天皇至自吉野宮五月辛未朔辛夘褒美百濟淳武微子壬申年功賜直大參仍賜絁布六月京師及郡國四十雨水戊子詔曰此夏陰雨過節懼必傷稼夕惕迄朝憂懼思念厥愆其令公卿百寮人等禁斷酒宍攝心悔過京及畿內諸寺梵衆亦當五日誦經庶有補焉自四月雨至于是月已未大赦天下伹盜賊不在赦例秋」
【五年の春正月の癸酉が朔の日に、親王・諸臣・内親王・女王・女官達に位を与えた。己卯の日に、公卿に飲食・衣裳を与えた。正廣肆の百済王の余禪廣・直大肆の遠寶・良虞と南典とに手厚く差をつけて恩賜を与えた。乙酉の日に、増封した。皇子の高市に二千戸、前から併せて三千戸に。淨廣貳の皇子の穗積に五百戸。淨大參の皇子の川嶋に百戸、前から併せて五百戸。正廣參の右大臣の丹比の嶋眞人に三百戸、前から併せて五百戸。正廣肆の百済王の禪廣に百戸、前から併せて二百戸。直大壹の布勢の御主人朝臣と大伴の御行の宿禰とに八十戸、前から併せて三百戸。その他はそれぞれ差をつけて増封した。丙戌の日に、「直廣肆の筑紫の史の益は、筑紫大宰府典に拝命されてから、今までに二十九年たった。清廉潔白に忠義の心で、無理をしてもさぼることがなかった。それで、俸禄として五十戸・太絹十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を与える」と詔勅した。戊子の日に、天皇は、吉野の宮に行幸した。乙未の日に、天皇は、吉野の宮から帰った。二月の壬寅が朔の日に、天皇は、公卿達に、「お前たちは、天皇の世に、佛殿・経藏を作って、月ごとの六斎念仏を行った。天皇は、時々に近習を派遣して問いたずねた。私の世でもこのようにしたい。それで、心底に真心を持って、佛法を奉じなさい」と詔勅した。この日に、 宮中に仕える人に位記を与えた。三月の壬甲が朔の甲戌の日に、公卿を西の広間で宴会を催した。丙子の日に、天皇は、公私の馬を御苑で観た。癸巳の日に、「もし百姓の弟が、兄の為に売られることが有ったら、公民にしなさい。もし子が、父母の為に売られたなら、賎民としなさい。もし借財の利払いで賎民に没落した者は、良民にしなさい。その子が、奴婢を配偶者にして生まれた子であっても皆良民にしなさい」と詔勅した。夏四月の辛丑が朔の日に、「もし氏の先代の時に解放された奴婢で、すでに除籍された者は、その親族達が、さらに訟えて、自分の奴婢と言うことはできない」と詔勅した。大學の博士の上村の主の百済に、正倉に蓄えられた稲千束を、其の学ぶ態度を見て与えた。辛亥の日に、使者を派遣して廣瀬大忌神と龍田風神とをお祭りした。丙辰の日に、天皇は、吉野の宮に行幸した。壬戌の日に、天皇は、吉野の宮から帰った。五月の辛未が朔の辛卯の日に、百済の淳武微子が壬申の年の功績の褒美で、直大參を与えた。それで太絹・布を与えた。六月に、京師および郡国四十に、四月から是月まで雨が降ったので、戊子の日に、「この夏、しとしとと降りつづく雨が季節外れだ。それで、きっと農耕に差し障りが有るに違いない。暗くなるまで心を痛め、翌朝まで心配で恐れおののいて眠れない。この禍を逃れるには、公卿や役人達が、酒や肉食をかたく禁じて、ひたすら修養しなさい。京および畿内の諸寺の僧達も五日間、助けが有るように経を誦みなさい。」と詔勅した。己未の日に、天下に大赦を宣言した。ただし盜賊だけは恩赦の中に入れなかった。】とあり、二月壬寅は1月30日、四月辛丑も3月30日で前の月が小の月なら標準陰暦と合致し、その他は標準陰暦と合致する。
前回の暦法の続きだが、691年の儀鳳暦は676から679年の儀鳳年間の名を使っているが、唐では麟徳2年に開始して麟徳暦と呼ばれ728年まで使用されて、『日本書紀』完成時は麟徳暦と解っていたにもかかわらず儀鳳暦と記述して、720年の『日本書紀』作成者は儀鳳暦が麟徳暦と理解していなかったと考えられる。
すなわち、天智天皇が中国儀鳳年間に九州で始めて儀鳳暦と記述したことが解り、導入した時期が677年天武天皇六年「不告朔」以降の儀鳳年間に郭務悰達が使っていた暦を導入したと考えられ、それまで、晦日が朔の暦を記録して『日本書紀』に反映された可能性が高く、告朔を行っているので、晦日が朔の習慣が抜けなかったことを示している。
それに対して、持統5年の項に挿入され理由は『三国史記』の新羅の項には朔日や晦日が正確でない奈解尼師今六年以降記述されず、正確な暦を使った形跡が8世紀末の元聖王三年八月辛巳朔「日有食之」で野讃良皇女が正確でない元嘉暦を新羅から導入したことが考えられる。
なお、百済では威德王三十九年「秋七月壬申晦日有食之」と干支は合っているが、おそらく、8月1日にあった日食を倭国と同じ30日が朔の暦を使った百済の資料を、中国は晋が朔を晦日にしていたため8月の「癸酉朔日」を7月の「壬申晦日」に修正した可能性が高い。
そのため、『日本書紀』の持統十一年「八月乙丑朔天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」、『続日本紀』文武元年「元年八月甲子朔受禪即位」とあり、八月乙丑は8月2日で元明朝は『日本書紀』を完成させた時期ですら過去にさかのぼって計算できなかったことを示し、796年完成の『続日本紀』の資料は正しい日干支を知っていたのだから『日本書紀』に対応させず、違う暦を使用する王朝の資料を『日本書紀』はそのまま使用されたことを意味している。
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