日本書紀 慶長版は
「十一年春正月甲辰饗大夫等戊申賜天下鰥寡孤獨篤癃貧不能自存者稻各有差癸丑饗公卿百寮二月丁夘朔甲午以直廣壹當麻真人國見爲東宮大傅直廣參路真人跡見爲春宮大夫直大肆巨勢朝臣粟持爲亮三月丁酉朔甲辰設無遮大會於春宮夏四月丙寅朔已己授滿選者淨位至直位各有差壬申幸吉野宮己夘遣使者祀廣瀬與龍田是日至自吉野五月丙申朔癸夘遣大夫謁者詣諸社請雨六月丙寅朔丁夘赦罪人辛未詔讀經於京畿諸寺辛巳遣五位以上掃灑京寺甲申班幣於神祇辛夘公卿百寮姶造爲天皇病所願佛像癸夘遣大夫謁者詣諸社請雨秋七月乙未朔辛丒夜半赦常?(金+嬰)盜賊一百九人仍賜布人四常伹外國者稻人二十束丙午遣使者祀廣瀬與龍田癸亥公卿百寮設開佛眼會於藥師寺八月乙丑朔天皇定策禁中禪天皇位於皇太子」
【十一年の春正月の甲辰の日に、公卿と高官達を饗応した。戊申の日に、天下の男女のやもめ・独り身・障害のある人・貧しくして生活できない者に稲を各々差を付けて与えた。癸丑の日に、公卿と役人を饗応した。二月の丁卯が朔の甲午の日に、直廣壹の當麻の眞人の國見を、皇太子の師にした。直廣參の路の眞人の跡見を皇太子の高官にした。直大肆の巨勢の朝臣の粟持を補佐とした。三月の丁酉が朔の甲辰の日に、法施を行う大法会を春宮で開催した。夏四月の丙寅が朔の己巳の日に、多くの選ばれた者に、淨位から直位までを授け、各々差をつけた。壬申の日に、吉野の宮に行幸した。己卯の日に、使者を派遣して、廣瀬と龍田とをお祭りさせた。この日に、吉野から帰った。五月の丙申が朔の癸卯の日に、高官と取り次ぎの者を派遣して、諸社に雨乞いで参詣させた。六月の丙寅が朔の丁卯の日に、罪人を赦免した。辛未の日に、詔勅して畿内の諸寺で読経させた。辛巳の日に、五位以上を派遣して、京の寺を掃除させた。甲申の日に、幣を神祇に配布した。辛卯の日に、公卿と役人が、はじめて天皇の病の回復を願うために佛像を造った。癸卯の日に、高官と取り次ぎの者を派遣して、諸社に雨乞いの参詣をさせた。秋七月の乙未が朔の辛丑の夜半に、常習の盜賊(?敵軍の捕虜)百九人を赦免した。なほ、布は、人毎に四常与えた。ただし外国の者は、稲を人毎に二十束。丙午の日に、使者を派遣して、廣瀬と龍田とをお祭りさせた。癸亥の日に、公卿と役人が、佛の開眼する法会を藥師寺で開催した。八月の乙丑が朔の日に、天皇は、内裏で臣下が天子を擁立する策を決めて、皇太子に天皇位を譲った。】とあり、二月丁卯朔は1月30日、六月丙寅朔は6月2日で5月が小の月、八月乙丑朔も8月2日で7月が小の月と、30日が晦日で朔の暦を使っている政権の記録を挿入し、それは、文武天皇を含むが元明天皇がこの記録間違いと認識していない。
しかし、『続日本紀』では文武元年「元年八月甲子朔受禪即位」と8月1日に禅譲したと記録して、政権にも正しい朔の記録があったにもかかわらず、他王朝の記録をそのまま採用した。
平朔法の元嘉暦との説があるが、697年は『日本書紀』では大の月が11大・12小・1小・2大・3小・4大・5大・6小・7大と平朔法に当てはまらない。
「東宮大傅」の東宮は聖徳太子・天智天皇・天武天皇・日並が呼ばれ、日並は『粟原寺鑪盤銘』「日並御宇東宮故造伽檻之爾故比賣朝臣額田以甲午年始」と694年に東宮と呼ばれ、草壁皇子とは別人の「浄御原宮天下天皇」の子以外の続柄で、東宮は天皇の子以外の後継者が居住するところである。
そして、「定策禁中」は臣下が相談して後継者を決めることで、顕宗天皇と文武天皇のみに出現し、顕宗天皇は平郡王朝清寧天皇真鳥と後継者鮪を殺害して後継者がいないので、顕宗天皇が臣下達の相談で後継者になったのであり、持統紀の「定策禁中」は文武天皇には当てはまらず、總持天皇を打ち破った元明天皇が總持天皇の臣下達に推挙され大長年号が終了した翌年、713年1月1日乙丑に日本国の天皇に即位した可能性が高い。
これまで、白石や宣長達に影響されない慶長版の『日本書紀』の一書を無視した本文を基に検証してきたが、天文学的朔の日干支を標準陰暦として、それに合わない日干支と区別してきたが、王朝に2つの暦が有るはずがなく、標準陰暦以外の暦は朝廷以外の暦と考えるのが妥当である。
そして、推古天皇時代の日食が2日に発生したと記述されたが、実際は天文学的朔の日干支で、従来の天文学の計算式で日食を検証すると、畿内では見られず、九州で見られた日食だったことから、30日が晦日の暦を九州の朝廷が使っていたことがり、中国や朝鮮の史書の朔の日干支や日食の日干支もほとんど天文学的日干支と合致し、これらの史書が信頼できることが解った。
今までの古代史は証拠がない、『三国志』の東が正しかったり間違っていたりする、大家が言うがまゝの論理を基に推論されてきたが、天文学的朔の日干支という証拠と金石文という証拠によって、初めて証拠がある、誰もが再検証できる論理を遂行出来るようになり、中国史書や『日本書紀』の間違って配置された資料と正しい朝廷の資料を分けることが出来た。
そして、『山海經』の『海外西經』の「奇肱之國」が「有陰有陽」の王すなわち、男女の王が支配し、伊弉諾・伊弉冉が陽神・陰神と言われたように、また、女子國が「兩女子居水周之」と島にいる天照・月読の2柱の女神を表し、「三身國」は「帝俊」の「妻娥皇」が生み、まさに、国生み神話で筑紫から対馬の国々の神話を纏めたものが『日本書紀』の神話だったように、それぞれの天皇も幾つかの王朝の王を纏めた記録と理解できた。
そして、これらの中国史書や『三国史記』・『続日本紀』に記述される証拠から、日本には、君子国、辰国、秦国、大倭・扶桑国、秦王国、倭国、俀・日本国そして大倭・日本国と王朝が推移したと記述され、事代主、建氏、尾張氏、物部氏、葛城・息長・紀氏、平郡氏、巨勢氏、物部氏、蘇我氏、天氏、中臣氏、天氏と政権が推移したが、皇太后と皇后と爾によって王朝間の継続性を確保してきたことを述べてきた。
次回からは、『日本書紀』の1書や『古事記』・『先代舊事本紀』などと『日本書紀』本文と比較しながら、検証していきたい。
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