2021年4月16日金曜日

最終兵器の目  『日本書紀』本文と一書群 序文1

  『日本書紀』には『日本書紀』の元となった文献群が存在し、『日本書紀』を記述した王朝が王朝自身の文献に他の文献群を取り入れて、扶桑国・秦王国・倭国・日本国を中心国とする史書を記述したもので、時代が解らない文献群をそれぞれ、年代が解っている神(辰・秦)国・倭奴国・台奴国・扶桑国・秦王国・俀国・倭国・日本国の首都(宮で治めた天皇)に振り分けて完成させた。

『日本書紀』は歴代の王朝が残してきた史書に付け加えたため、序文が存在しないが、秦王国・倭国の史書をまとめて提出した『舊事本紀』の序文と『日本書紀』が完成した直前に元明天皇に献上した『古事記』の序文が残っている。

『舊事本紀』前川茂右衛門寛永版には「先代舊事本紀序大臣蘇我馬子宿禰奉勅修撰夫先代舊事本紀者聖徳太子且(?)撰也于時小治田豊浦宮御宇豊御食炊屋姫天皇即位廿八年歳次庚辰春三月甲子朔戊戌攝政上宮厩戸豊聰耳聖徳太子尊命大臣蘇我馬子宿禰等奉勅定宜録先代舊事上古國記神代本紀神祇本紀天孫本紀天皇本紀諸王本紀臣連本紀伴造國造百八十部公民本紀者謹據勅旨因修古記太子為儒釋説次録而修撰未竟太子薨矣撰録之事輟而不續因斯且所撰定神皇系圖一卷先代國記神皇本紀臣連伴造國造本紀十卷号曰先代舊事本紀(?)謂先代舊事本紀者蓋謂開闢以降當代以往者也其諸皇王子百八十部公民本紀者更待後勅可撰録于時卅年歳次壬午春二月朔己丑是也凡厥修撰題目顯録如右」、【「先代旧事本紀の序」大臣蘇我馬子宿祢が、詔勅をうけて撰修した。そもそも、『先代舊事本紀』は、聖徳太子がかつて撰じたものである。小治田豊浦宮で天下を治められた豊御食炊屋姫天皇の治世二十八年庚辰春三月朔が甲子(646年または庚辰620年)の戊戌に、摂政の上宮厩戸豊聡耳聖徳太子の尊が編纂を命じた。大臣蘇我馬子宿祢らは、先代舊事、上古國記、神代本紀、神祇本紀、天孫本紀、天皇本紀、諸王本紀、臣連本紀、伴造・国造・百八十部の公民本紀を記せという詔勅をうけて撰定した。詔勅により、古い文献に従い、太子が導き手となって解釈と説明をしたが、記録し撰修することが終わらないうちに、太子が亡くなった。編纂は中断し、続けることができなかった。このような経緯で、かつて撰定された神皇系図一巻、先代國記、神皇本紀、臣・連・伴造・国造本紀の十巻を、名づけて『先代舊事本紀』という。いわゆる『先代舊事本紀』は、天地開闢から当代までの過去について述べたものである。漏れた諸皇王子、百八十部の公民本紀は、さらに後の勅を待って編纂するべきである。ときに、三十年壬午春二月朔が己丑の日のことである。すべて、その題目を修め撰び、記録することは次のとおりである。】と訳した。

『舊事本紀』は物部氏の史書なので、当然、『舊事本紀』を提出される人物は推古天皇こと御井夫人と贄古太子で太子が薨じたのが622年1月で編纂を停止したと翌年の2月の慧慈死亡まで記述しているが、『日本書紀』は「廿九年春二月己丑朔癸巳半夜厩戸豐聰耳皇子命薨」と621年2月で朔は正しいが卅年622年の壬午年ではなく、621年の辛巳年で、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』は「法興元丗一年歳次辛巳十二月鬼前太后崩明年正月廿二日上宮法皇枕病弗悆」と622年1月とあり、『日本書紀』とは合致せず、『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』は合致するが丗二年ではなく、二月朔己丑は621年か652年か682年の2月である。

すなわち、この序文の「且所撰定」以降は「國造本紀」を追加し、『舊事本紀』は舒明天皇まで記述された『日本書紀』と『法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘』をもとに付け加えた文で、「廿八年歳次庚辰春三月甲子朔戊戌」は2月30日で九州の馬子の暦と考えられ、三月甲子朔は646年で、『法隆寺金堂薬師如来像光背銘』「池邊大宮治天下天皇大御身勞賜時歳次丙午年」と646年に池邊大宮治天下天皇が崩じ、おそらく御井夫人が皇后になって廿八年にあたり、池邊大宮治天下天皇をついで天皇になり、太子の贄古が史書を編纂させたと考えられる。

そして、実際は647年・大化三年十二月の晦の「災皇太子宮時人大驚恠」が贄古太子の死亡なのではないだろうか。

『舊事本紀』は政権の真っただ中で、物部氏の推古天皇御井夫人を中心に、年号は首都の年号に直結しているので、朔の日干支も正しいことが考えられ、白雉元年652年に即位した物部氏の天皇の30年682年に『舊事本紀』を上程し、御井夫人の子の蝦夷の妻で入鹿の母の鏡姫王の物部鎌媛大刀自に上程したと考えられる。

八色の姓は684年に制定とされるが、そこで制定された眞人が天武天皇に付与されて、天武天皇は諸王の地位で眞人だった人物が皇位に就いたのだから、もし大海皇子のこととすれば、671年以前に八色の姓を施行したことになる。

そして、682年天武天皇十一年の「筑紫大宰丹比眞人嶋等貢大鐘」と記述され、八色の姓は天武死後の付与ではなく、天智天皇が即位して間もなく669年頃に公布された可能性が高く、天渟中原瀛眞人は息長足日廣額の子なので、息長公すなわち諸王眞人で理に適い、『舊事本紀』は682年上程で、「物部連公麻侶馬古」の朝臣賜姓は矛盾が無い。


0 件のコメント:

コメントを投稿