2021年4月26日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』一書 第一段1

  それでは、今回から一書の分析を、本文と対比することで、本文を検証するだけでは解らなかったことを発見していこうと思う。

『日本書紀』本文は、天地の創めで、常立・狹槌・斟渟を記述していて、これは、『日本書紀』の王朝の最初に王を意味する日本語が「ぬ」で、おそら、「ぬ」という国名、「産靈」の「ひ」も国名、おそらく、小字名が王名を意味し、斟渟にのみ「豊」と国の名を有して、「ち」の神が豊の国を奪った、時代の豊国の神話のようである。

最初の一書、簡易的に()と番号をつけて(以下同様)一書()一書曰天地初判一物在於虛中狀貌難言 其中自有化生之神號國常立尊亦曰國底立尊次國狹槌尊亦曰國狹立尊次豊國主尊亦曰豊組野尊亦曰豊香節野尊亦曰浮經野豊買尊亦曰豊國野尊亦曰豊囓野尊亦曰葉木國野尊亦曰見野尊、【一書に、天地初めて別れるときに、一の物が空虚の中に在った状態も形状も言うことが出来ない。其の中に自づからに化り生れたが有った。國常立尊という。亦は國底立尊。次に國狹槌尊。亦は國狹立尊。次に豐國主尊。亦は豐尊。亦は豐香節尊。亦は浮經豐買尊。亦は豐尊。亦は豐齧尊。亦は葉木尊。亦は見尊。】と訳してみた。

この一書は同系の3氏族神話を纏めた、其々時代が異なる、大元の氏族からいつ別れたかによって、神の名前が異なる説話を纏めたことを意味し、最後が一番古く、最初が新しい神話と考えられ、葦牙から生まれた説話の影響を受けていない。

『伊未自由来記』の「木葉比等」は『日本書紀』の葉木国を前提に文字選択したと考えられ、木の文字も「木祖句句廼馳」が前提、葉も同地域の「日向泉長媛生大葉枝皇子小葉枝皇子」と後漢時代以前の「拘奴國」の神話で、『伊未自由来記』の「木葉比等」、但し、「木葉比等」は最初の流入者なので、後から来た入れ墨を施した人々がこの地域から来たと考えられる。

すでに、國という概念があり、狹槌国主という地位を与えている、そんな時代の神話がこの一書で、垂仁天皇七年「出雲國有勇士曰野見宿禰」は出雲の配下の野見国王の意味で豊のの見(=神)王(=宿祢)と考えればよく合致し、「狹」は『舊事本紀』の「狭霧尊」の出身地である

丹波の大国主は越と宗像の女王を手に入れて、領有しているのだから、『山海經』の「女戚在其北居兩水閒」の海の中道の女王と考えられる「草野姫」・「野槌」が配下となり、野姫や 野槌は野の日の女神・野の津の神の意味で出雲は大国の領地で「野見宿禰」は良く符合する。

天皇に氏姓が不要なように、家族内では名前すら不要で、どんな小さな領域でも支配者に氏姓は不要、部族王にも氏姓は不要で、複数の家族が出来ると人名が出来、他王の配下になるとき、地名(豊・大など)や役職名(彦・尊など)が必要になる。

地後定然後神聖生其中の聖人は肅慎國で肅慎人に代わって統治して雒棠を取って衣を作った」とある、その神・や聖人のことを『日本書紀』は記述したのである。

そして『日本書紀』は國常立が建国した国で豐斟渟が建国した国を國狹槌が奪いその国を國常立が奪ったものだと主張し、『山海經』は3国を統一したのが帝俊・天常立だと言っている

豊国は『日本書紀』では敦賀にいた神功皇后が穴門、さらに、『後漢書』の「其大倭王居邪馬臺國」と筑紫を奪い『三国志』では邪馬台国は卑弥呼に奪われるが、『古事記』は「肥国謂建日向日豊久士比泥別」、『舊事本記』は「日向國謂豊久士比泥別」と「豊久士比泥別」の国が豊国領だったと、久士比泥が肥国から日向国に変わっていて、扶桑国の神武天皇の母日向髮長大田根の祖先は、伊都国が主を官位とする国に支配されて、伊都の配下だった日向国で建国したと思われる。

伊都の「一大率」は聖と呼ばれる熊襲の銅鏡を副葬する甕棺墓に埋葬される伊都彦が「三身国」を支配していたが、景行天皇の頃、大倭国に負けて主を官位とする伊襲縣主が支配したと考えれば、史書や、伊都が甕棺の中心で、邪馬台国の糟屋郡から甕棺墓が無くなっていくことと符合する。

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