2021年4月19日月曜日

最終兵器の目  『日本書紀』本文と一書群 序文2

  序文のあるもう一つの一書の、『古事記』 前川茂右衛門 寛永21年版は「臣安万侶言夫混元既凝氣象未効無名無爲誰知其形然乾坤初分参神作造化之首陰陽斯開二霊爲群品之祖所以出入幽顯日月彰於洗目浮沈海水神祇呈於滌身故太素杳(杏)窅(?冥)因本教而識孕土産嶋之時元始綿邈頼先聖而察生神立人之世寔知懸鏡吐珠而百王相續喫釼切蛇以万神蕃息歟(?與)議安河而平天下論小濵而清國土是以番仁岐命初降于高千嶺神倭天皇經歴于秋津嶋化熊出爪(?川)天釼獲於高倉生尾遮經大烏(?焉)導於吉野列儛攘賊聞歌伏仇即覺夢而敬神祇所以稱賢后望烟而撫黎元於今傳聖帝定境開邦制于近淡海正姓撰氏勒于遠飛鳥雖歩驟各異文質不同莫不稽古以繩風猷於既頽照今以補典教於欲絶曁飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜龍躰元洊雷應期聞夢歌而想(相)纂業投夜水而知承基然天時未臻蝉蛻於南山人事共給虎歩於東國皇輿忽駕凌渡(山)川六師雷震三軍電逝杖矛舉威猛士烟起絳旗耀兵凶徒瓦解未移浹辰氣弥(沴)自清乃放牛息馬愷悌歸於華夏巻旌戢戈儛詠停於都邑歳次大梁月踵侠鐘清原大宮昇即天位道軼軒后徳跨周王握乾符而摠六合得天統而包八荒乗二氣之正齊五行之序設神理以奨俗敷英風以弘國重加智海浩汗潭探上古心鏡煒煌明覩先代於是天皇詔之朕聞諸家之所齎帝紀及本辞既違正實多加虚偽當今之時不改其失未終(經)幾年其旨欲滅斯乃邦家之經緯王化之鴻基焉故惟撰録帝紀討覈(竅)舊辞削偽定實欲流後葉」、【臣下の安萬侶が言います。国は、元々混とんとしていて固まらず、何も起こらず名も何もなかった。誰れもそのころのことを知りません。しかし、乾坤が初めて分れて、3神が初まりとなって、森羅万象が始まり、夫婦神が国の祖神となった。それで、生き死にを繰り返して、日神と月神は清めた目で生み、諸神は海水に浮き沈みして身を滌いで生んだ。それで、黄帝の述べる太素ははっきりしないが、本文によって土地を得て島()を産んだ(?得た)時をしり、世の始まりは幽遠だが、昔の聖人を頼って神が生まれ、人が立てた世を察することが出来た。鏡を懸け珠を吐き、百王が相續し、劒を喫う蛇を切り、萬神が繁栄したことを知る。安河で協議して天下を平げ、小濱で論じて國土を祓い清めた。それで、番仁岐命が初めて高千嶺に降り、神倭天皇が秋津島に順をおって経てきた。化熊川に出て、天の劒を高倉から獲て、尾がある者に徑を遮られ、大烏が吉野に導いた。列をなして舞いながら賊を攘い、歌を聞いて仇きを屈伏させた。そして、夢のお告げで神祇を敬った。そのため賢后と言った。烟を望んで人民を労った。今、聖帝と伝わった。境を定め邦を開いて、近淡海で制し、正しい姓を氏から撰んで、遠飛鳥で統御した。緩急は其々異なり、形式と内容も同じとは言えないが、昔とくらべて考えて既に頽れたものを調べ正し、今に照らしてただしい教えが絶えないよう補うことが出来る。飛鳥の清原の大宮で大八州を御す天皇の世になって、力を蓄えて潜んでいる若い龍が善徳を身につけ、雷鳴に応じた。夢の歌を披歴して本務をまとめようと、夜間、田に水をひく頃まで考えた結果、根本を継承しようとした。しかし、天命はまだ下りず、南山で俗世間に惑わされず、人事共に準備が出来て、東國へ勇猛に前進した。天皇の乗る輿はすぐに凌駕して、山川を渡り、六師団は雷鳴のように打ち震わし、三軍は雷光に当たったように死んでいった。杖矛で威勢を発し、兵の勢いは煙が襲うようで、赤い旗は軍を耀かし、悪者は瓦解した。まだ十二日にもならないのに、損なう気持ちが自ら清まった。乃ち、牛を放ち馬を休ませ、楽しく、心安く(愷悌:楽易↔辛苦)華夏に帰り、旌を卷き戈をおさめ、舞歌って都邑に停まった。酉年の二月に、清原の大宮で、天位に昇って即位した。道理は軒后にまさり、善い特質は周王より卓越する。天子の爾を手にして六合を統治し、皇統を得て国の隅々まで一まとめにした。日神と月神の正しい教えに従って五行の言う序列をきちんとし、神の道理をこしらえて人民に行うようにすすめ、りっぱな風習をしき及ぼし国中にゆき渡らせた。海のように広く深い智慧にさらに加えて、際限なく広大な教えで底深く昔を探り物事を映しだす心は明るく輝き、明確に前朝廷を見つめた。ここで天皇が「私は聞いたのだが、諸家が持ってくる帝紀及び本辭はもう、新しい朝廷の実情と違って、たくさんの虚偽が加えられている。私の朝廷になって、新しい朝廷の実情に改めなければ、ほんの数年で、本旨が忘れ去られてしまう。これが、私の血統の推移と私の政権奪取の大きな事業の基礎だ。だから、帝紀を述作して記録し、舊辭をさがし求めてしらべ、当家にあわないことを削って、当家の成り立ちを定めて後世に流通させたい」と詔勅した。】と訳した。

乾坤は天地とされているが、おそらく、元々は西北の水が湧き出す天と呼ばれる場所から、西南の揚子江の会稽までを中原の中国人が呼び、日本では安芸の人々が天と呼んだ対馬海流の上流すなわち、奄美から五島列島・天草までの日本海岸から九州本土を安萬侶は表現したのだろう。

『山海經』にある「天」は中国大陸の西部山岳地帯や黄海を指し、河の上流や水が湧き出て、玉を産出する場所を記述していて、中原を天下と呼び、『日本書紀』の神話は『山海經』の用法を踏襲し、三身国や六合等の地名を用い、霊や神が生まれることも合致し、大国は『山海經』の大人国から「大」を使い、「あま」を「天」と書き、「そら」は「宇宙」や「虚空」と書いている。

歳次大梁月踵侠」は普通に言うと酉年の二月で、673年2月は「二月丁巳朔癸未天皇命有司設壇場即帝位於飛鳥浮御原宮」の記事と対応するが、丁巳朔は1月30日で朝廷の記事ではなく、30日が朔とする王朝の記事で、安萬侶は「癸酉年乙卯月朔戊午」という干支を知らなかった、すなわち、酉年では何年か特定できず、朝廷の暦法を知らないで、十二次の知識が記述されたことを意味した。

そして、朝廷以外の王は王の即位が元年だから、大梁は「酉年」ではなく文武が即位してから「1.星紀・2.玄枵・3.諏訾(娵訾)4.降婁・5.大梁」と5番目すなわち5年目、697年即位でその5年の701年のこと、すなわち701年2月大宝元年二月「庚午車駕至自吉野宮」と吉野から帰った時のクーデタとなる。

飛鳥清原大宮御大八州天皇御世潜龍躰元」と飛鳥清原大宮天皇の時潜んでいたとなっているが、672年「是歳營宮室於岡本宮南即冬遷以居焉是謂飛鳥淨御原宮」と671年には「飛鳥淨御原」では無く、704年慶雲元年に「壬寅始定藤原宮地」と遷都するまで飛鳥清原大宮が首都だった。

持統三年に建てられた『采女氏塋域碑』や700年に建てられた『那須国造碑』には飛鳥浄御原天皇で707年に作られた『大村骨臓器銘文』は「後清原聖朝」・「藤原聖朝」で、701年即位した文武天皇が後清原宮天皇であり、704年に藤原宮に遷都して藤原宮天皇と金石文とも合致する。

そして、名目上の大長年号を発布している總持天皇が存在し、それを滅ぼした天皇が元明天皇なので、 「飛鳥清原大宮」文武天皇は周王朝の天子にならなかった周王や最初の王朝の夏朝の前の軒后と比較して、それより立派だと言っている。

そして、「削偽定實」は『舊事本紀』の「生一神號日天譲日天狭霧國禪月國狭霧尊」や『日本書紀』の「于時天地之中生一物状如葦牙便化爲神號國常立尊」と諸氏の神祖が文武天皇の神祖の御中主と違うから書き直し、皇極・孝徳・天智・天武・持統は文武天皇の王朝の人物ではないから削除し、田村王は宝王を糠代として、その糠代を田村王に亦名で変更を加えた。

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