次の一書、一書(2)「一書曰古國稚地稚之時譬猶浮膏而漂蕩于時國中生物狀如葦牙之抽出也因此有化生之神號可美葦牙彥舅尊次國常立尊次國狹槌尊葉木國此云播舉矩爾可美此云于麻時」、【一書、昔、国が出来たばかり、土地が出来たばかりの時に、譬へば浮ぶ膏のようにただよっていた。ある時に、国の中にある物が生れた。状態は、葦の牙がぬけ出でたようだった。これがかわって生まれた神がいた。可美の葦牙の彦舅の尊という。次に国の常立の尊。次に国の狹槌の尊。葉木国、此をばはこくにという。可美、これをうましと云う。】と、訳した。
この一書は内容に豊国のかわりに葉木国が記述され、葉木国の神話ということが解り、一書(1)の常立の国は葉木国にあり、その国を「可美葦牙彦舅」が海からやって来て葉木国を奪取したと記述し、葦牙彦の国は語幹から豊国に併合された「豊葦原」が一番ふさわしいと考えられ、『日本書紀』の書き出しは「可美葦牙彦舅」の神話を採用したと考えられる。
「可美葦牙彦舅」は蛭子が葦船で水葬されたように船がある葦国が想定され、「彦」は『三国志』の「對馬國其大官曰卑狗」の「卑狗」で上位国に任命された長官程度の地位の人物で、この葦国の牙という地域の彦の舅という人物が建国した彦を冠位に持つ時代にできた「じ」を神と呼ぶ神話で、彦は本来、中国の天国の王が天子であるように、日国の王が「日子」で、「神国」の王が「神子」・みこ、「き神国」の王が「きみこ(君子)」、根国の王が「根子」で、後漢時代、敦賀の王の神功皇后は大倭王の「き」神子の君子で邪馬台国を統治したが、それを奪った魏・晋時代の邪馬壹国女王が日神子の卑弥呼である。
『三国志』では「彦」を「卑狗」と記述し、『古事記』は「日子」・「比古」・「毘古」・「日高」を使用するが、『日本書紀』がどうして「彦」の文字を使用したかを考え、私は、呉と西晋で活躍した吾彦が呉の人物の為「呉彦」と呼ばれ、倭国では元嘉二年425年、部下に「司馬」を使ったように、官位の表音「卑狗」を表意文字として英雄の名「彦」を用い、それが、日向国出身の葛城朝の扶桑国が用いたのではないかと考えている。
次の一書、一書(3)「一書曰天地混成之時始有神人焉號可美葦牙彥舅尊次國底立尊彥舅此云比古尼」、【一書に、天と地が混わってできた時に、始めて神の人がいた。可美の葦牙の彦舅の尊という。次に国の底立の尊。彦舅此をばひこぢと云う。】と訳した。
この一書は一書(2)の底立の国を奪って可美葦牙彦舅が日国を建国した王「日子」と述べているが、『日本書紀』の常立が生まれる接頭語「含牙」はこの牙彦舅のもので、牙彦舅を常立に書きかえたと考えられ、「三身国」・日国の建国神話でその前に底立、すなわち、「ち」という霊の国があった。
すなわち、彦舅の「ぢ」も「ち」の神と同一時代の『山海經』の神霊の霊を意味したと考えられ、連・倉下の「ぢ」も同じく霊を崇拝する土地神の呼称だったと考えられ、殷時代より前に日本での2大人種の融合が始まっと考えられ、弥生人と縄文人は縄文時代には帝俊達によって既に始まっていたことが解る。
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