2021年4月21日水曜日

最終兵器の目  『日本書紀』本文と一書群 序文3

  続けて、「時有舎人姓稗田名阿禮年是廿八爲人聡明度目誦口拂耳勒心即勅語阿禮令誦習帝皇日継及先代舊辞然運移世異未行其事矣伏惟皇帝陛下得一光宅通三亭育御紫震(宸)而徳被馬蹄之所極坐玄扈而化照舩頭之所逮日浮重暉雲散非烟連柯并穂之瑞史不絶書列烽重譯之貢府無空月可謂名高文命徳冠天乙矣於焉惜舊辞之誤忤正先紀之謬錯以和銅四季(年)九月十八日詔臣安萬侶撰録稗田阿禮所誦之勅語舊辞以獻上者謹随詔旨子細採摭然上古之時言意並朴敷文構句於字即難已因訓述者詞不逮心全以音連者事趣更長是以今或一句之中交用音訓或一事之内全以訓録即辞理叵見以注明意況易解更非注亦於姓日下謂玖沙訶於名帯字謂多羅斯如此之類随本不改大抵所記者自天地開闢始以訖于小治田御世故天御中主神以下日子波限建鵜草葺不合尊以前爲上巻神倭伊波禮毘古天皇以下品陀御世以前爲中巻大雀皇帝以下小治田大宮以前爲下巻并録三巻謹以獻上臣安萬侶誠惶誠恐頓首頓首和銅五年正月廿八日正五位上勲五等太朝臣安萬侶」、【その時に付き人がいた。姓は稗田、名は阿禮、年は廿八だった。人柄は聡明で、見ただけで空で誦み、聞いただけで記憶した。それで、阿禮に詔勅して帝皇日繼及び先代舊辭を繰り返し読ませた。しかし、時代が移り世代が異なっても、まだ詔勅を実行できていない。謹んで考えると、皇帝陛下は、陛下一人で広く光がおよび、天地人すべてを養い育てる。天子の御殿で国を治めて徳は馬で行ける果てまでおよび、玄扈に座り、王化は海外の船で行ける場所まで照らしている。太陽が昇ると陛下と重なって輝き、雲はかき消されて煙も無い。枝が連なって、穂が合わさっているのは良い験で、陛下の歴史は絶えることなく、国境の防御は万全で、外国の朝貢が重なり、倉が空になる月がない。文命よりも高名で、徳は天乙(周初代皇帝)より優れていると言える。ここで、舊辭の誤り反したことを惜しみ、先紀の間違いを正そうとして、和銅四年九月十八日をもって、臣下の安萬侶に詔勅して、稗田阿禮に誦むように命令した勅語の舊辭を作って記録して献上させ、謹んで詔旨のとおりに、子細にひろい集めた。しかし、古代では、言葉の意味はどれも純真さを失っておらず、文を作成するのに、漢字を使えない。既に訓で述べたのは本意ではなく、全て音を連ねると、言おうとしていることを書き表すとさらに長くなる。それで今、或いは一句の中に、音訓を交へて用い、或いは一句の内に、全て訓を以ちて記録した。それで、言葉の意味が分かりにくいときは、注で明らかにし、意味が解りやすいときは注を重ねなかった。また姓では日下をくさかと言い、名では帶の字をたらしと言うようなものは、本のまま改めなかった。大方、記した所は、天地開闢から始めて、小治田の世で終わる。それで、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合命以前を上卷とし、神倭伊波禮毘古天皇から、品陀の世以前を中卷とし、大雀皇帝から、小治田大宮以前を下卷とし、あわせて三卷を記録して、謹んで献上します。臣下の安萬侶は、おそれてかしこまり、二度頭を地面に打ちつけてお辞儀します。和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶。】と訳した。

安萬侶が和銅年号を使ったように、自王朝の年号は正確に使ったのに対し、前項の「歳次大梁月踵侠鐘」は白鳳なのか朱雀なのか大化なのか具体的に記述せず、2月は降婁とするなど、自王朝の元号でなく、年号の記録が無く、自王の即位年の干支の記録があやふやだった。

玄扈は黄帝の座る場所のことで、『山海經』では鹿の蹄で、元明天皇は鹿より遠くまで行く馬が行きつくところと黄帝より徳が上と言っていて、「飛鳥清原大宮」天皇が帝位につかない王とするのに対して、元明天皇は、文命と中国最初の王朝夏の初代皇帝より高名で、徳は天乙と周初代皇帝より優れているとこれ以上ない世辞を述べて、元明天皇が王朝初代の天皇と言い、大長年号が711年で終了しているように、總持天皇の治世が終了している。

『続日本紀』には唐人が「海東有大倭國謂之君子國」と日本ではなく大倭と呼び、文武天皇は「倭根子豊祖父天皇」と謚号され、文武朝の国号は日本ではなく、元明天皇が「日本根子天津御代豊國成姫天皇」と日本を国号にして、大長年号までは九州に日本国があった。

701年に稗田阿禮が28歳なのだから、和銅四年711年には38歳で働き盛りだが、天武元年671年に28歳では68歳になり、死んでいるか、生きていても能力はかなり衰えていて、音で表現したと記述している「たい」の音を、「帯」という字を「たらし」と読み、「くさか」の音を「日下」という字で示して伝えたように、『古事記』の原本を3ヶ月で一人で書いて読み、天皇に上梓するほどの完成度で安萬侶が清書したとは考えられない。

なお、太朝臣安萬侶は『続日本紀』に704年慶雲元年「正六位下太朝臣安麻呂」、711年和銅四年四月「正五位下・・・太朝臣安麻呂」、715年霊亀元年正月「正五位上・・・太朝臣安麻呂」、723年養老七年七月「民部卿從四位下太朝臣安麻呂卒」、『太安万侶墓 墓誌の銘文』に「左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」と実在が証明されて、偽書説は否定されている。


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