日本書紀の慶長版の出だしの神話は「古天地未剖陰陽不分渾沌如鶏子溟涬・・・」から始まり天地の創めを記述している。
これは、昔、氷河時代の氷に日本海が包まれていた頃、海流も無く、上流の天も、下流の地の区別も無かったという言い伝えと、船を発明して水蒸気に霞んだ、見知らぬ日本海の島々に移住し、それらの場所に神(み)と霊(ち)が出会い、その中のある地域を最初に統治した人物が常立だったが、狹槌と斟渟が分国したという意味と思われる。
この神話は 『山海經』の「三身國」や『出雲風土記』の国引き神話の「三身之綱打挂而」の三身で、大国建国時は、 三身國と3国に分国していた時の事で、『古事記』の「筑紫国謂白日別豊国謂豊日別肥国謂建日」、おそらく、建日の祖神が常立、白日が狹槌、豊日が斟渟と思われる。
なぜなら、帝俊が天常立で建日国が黄海・天に一番近く、「建日方別」や「建依別」の支配地を持ち、帝俊が多くの海で活動しているからである。
「身」は神の「み」で、中国が『山海經』などで「神」や「身」と記述した文字を輸入して「み」と呼んだと思われ、「君」も岐(き)神(み)で『山海經』などの「君子國」の「君」の文字を輸入したと考えられ、『三国志』の韓の「國邑各立一人主祭天神名之天君 」も同一概念で、『山海經』の水流の上流の「天」、「神靈所生」の「神」、「君子國」の君と考えるべきだろう。
『日本書紀』は多くの王朝の説話を一つの王朝の歴史に纏め上げた紀伝体の史書と説明してきたが、これまで触れてこなかった一書群がまさに幾つかの王朝の母系・父系の神話群で、それを纏めたものが『日本書紀』の内容で、一書群の作者は『日本書紀』本文を知らないと思われる。
ここで、 『山海經 海經 海外南經』に 「地之所載六合之閒四海之內・・・神靈所生・・・唯聖人能通其道」、【地の載せる所、六合の間、四海の内・・・神靈生まれる所、ただ聖人能くその道を通う。】、 『山海經 海經 海外西經』に「肅慎之國在白民北有樹名曰雒棠聖人代立于此取衣」、【肅慎之國白民の北に在り,樹有りて名雒棠という,聖人代りて立ち,これを取りて衣とす。】とある。
『山海經 海外南經』は東海や黄海や東シナ海などの海中の外の日本海が海外でその南側の六合(玄界灘)で四海(海内東・海外南(瀬戸内)、海外西・海外東)の内側に神が生まれて聖人がいるところ、済州島や五島列島・天草など隆起文土器が分布した地域で、海流の上流にあるから「天」で7千年前にアカホヤ大噴火で逃げ出した人々が海流を降った先で一人神と呼ばれ、『伊未自由来記』の「木葉比等」が「西方千里」の加羅斯呂からやって来たとある。
この千里は短里では海中となってしまうので長里で、唐以降の見方と考えられ、釜山・対馬・壱岐あたり、「木葉比等」は船で来たと記述していないので、氷河時代に来て、加羅斯呂は『山海經』に類似の国名が無く、『三国志』の「斯盧國 」と考えられ「弁辰亦十二國・・・其十二國屬辰王」と神国日本の領域と記述している。
後に西の浦へ着いて、海岸沿いに重栖の松野・後・北潟に来て定住した男女二人と記述して船で来ているので、1万2千年前以降で、8千年前頃対馬海流が発生した後、対馬海流上流から流れてきた二人の人物で、その後同族の男女3人がやって来て子孫を増やしたが、出雲から入れ墨をした漁が得意な海人族が大挙してやってきて3民族が雑居したと残され、隠岐の三小島の説話の様である。
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