2021年2月17日水曜日

最終兵器の目 天武天皇27

  『日本書紀』慶長版は

朱鳥元年春正月壬寅朔癸夘御大極殿而賜宴於諸王卿是日詔曰朕問王卿以無端事仍對言得實必有賜於是髙市皇子被問以實對賜蓁揩御衣三具錦袴二具幷絁二十疋絲五十斤緜百斤布一百端伊勢王亦得實即賜皁御衣三具紫袴二具絁七疋絲二十斤緜四十斤布四十端是日攝津國人百新興獻白馬瑙庚戌請三綱律師及大官大寺知事佐官幷九僧以俗供養々之仍施絁緜布各有差辛亥諸王卿各賜袍袴一具甲寅召諸才人博士陰陽師醫師者幷餘人賜食及祿乙夘酉時難波大藏省失火宮室悉焚或曰阿斗連藥家失火之引及宮室唯兵庫軄不焚焉丁已天皇御於大安殿喚諸王卿賜宴因以賜絁緜布各有差是日問群臣以無端事則當時得實重給綿絁戊午宴後宮己未朝庭大酺是日御々窟殿前而倡優等賜祿有差亦歌人等賜袍袴庚申地震是月爲饗新羅金智淨遣廣肆川內王直廣參大伴宿祢安麻呂直大肆藤原朝臣大嶋直廣肆堺部宿祢鯯魚直廣肆穗積朝臣?(ノ虫:蟲)麻呂等于筑紫二月辛未朔甲戌御大安殿侍臣六人授勤位乙亥勅選諸國司有功者九人授勤位三月辛丑朔丙午大辨官直大參羽田真人八國病爲之度僧三人庚戌雪之乙丒羽田真人八國卒以壬申年之功贈直大壹位夏四月庚午朔丁丑侍醫桑村主訶都授直廣肆因以賜姓曰連壬午爲饗新羅客等運川原寺伎樂於筑紫仍以皇后宮之私稻五千束納于川原寺戊子新羅進調從筑紫貢上細馬一疋騾一頭犬二狗鏤金器及金銀霞錦綾羅虎豹皮及藥物之類幷百餘種亦智祥健勳等別獻物金銀錦霞綾羅金器屏風鞍皮絹布藥物之類各六十餘種別獻皇后皇太子及諸親王等之物各有數丙申遣多紀皇女山背姫王石川夫人於伊勢神宮

【朱鳥元年の春正月の朔が壬寅の癸卯の日に、大極殿にいて、宴会を諸王や公卿達の為に開いた。この日に、「私は、王や公卿に聞くと、何事もないという。それで真実を答えたらきっと褒美を与える」と詔勅した。そこで、高市皇子が、問いに真実を答えた。草木染め衣三具・錦の袴二具、併せて太絹二十匹・絲五十斤・綿百斤・布一百端を与えた。伊勢王もまた真実を言った。それで香りがよい衣三具・紫の袴二具・太絹七匹・絲二十斤・綿四十斤・布四十端を与えた。この日に、攝津の国の人の百済の新興が白い水晶を献上した。庚戌の日に、三綱の律師、及び大官大寺の知事、佐官、併せて九人の僧を頼んで、人々に供養で力づけた。なお、太絹・綿・布を施し、各々差が有った。辛亥の日に、諸王と公卿に各々衣と袴一具を与えた。甲寅の日に、諸々の技術者・博士・陰陽師・医師、併せて二十人余を招集して、食物及び禄を与えた。乙卯の日の酉の時に、難波の大藏省が失火して、宮室が残らず焼けた。或人が、「阿斗の連の藥の家の失火が、引火して宮室に及んだ」と言った。ただし兵庫職のみは焼けなかった。丁巳の日に、天皇は、大安殿にいて、諸王と公卿を招集して宴会を開いた。それで、太絹・綿・布を与えた。各々差が有った。この日に、天皇は、臣下に何事も無かったかと問いかけた。それでその時真実を答えたら、太絹・綿を重ねて与えた。戊午の日に、後宮で宴会を開いた。己未の日に、朝庭で大酒宴を開いた。この日に、神を祀る御殿の前にいて、芸人達に禄を与え差が有った。また歌人達に衣と袴を与えた。庚申の日に、地震が有った。この月に、新羅の金智祥を饗応する為に、淨廣肆の川内王・直廣參の大伴の宿禰の安麻呂・直大肆の藤原の朝臣大嶋・直廣肆の境部の宿禰の鯯魚・直廣肆の穗積の朝臣の蟲麻呂達を筑紫に派遣した。二月の朔が辛未の甲戌の日に、大安殿にいた。側に使える臣下六人に勤位を授けた。乙亥の日に、詔勅して、諸々の国司の功績が有った九人を選んで、勤位を授けた。三月の朔が辛丑の丙午の日に、大辨官の直大參の羽田の眞人の八國が病気に罹った。そのため三人を出家させた。庚戌の日に、雪が降った。乙丑の日に、羽田の眞人の八國が死んだ。壬甲年の功績で、直大壹の位を贈った。夏四月の朔が庚午の丁丑の日に、侍医の桑原の村主の訶都に直廣肆を授けた。それで、姓を与えて連とした。壬午の日に、新羅の客達を饗応する為、川原寺の仮面劇の楽器と道具を筑紫に運んだ。それで皇后の宮の私物の稲五千束を、川原寺に奉納した。戊子の日に、新羅の進上した年貢を、筑紫から貢上した。飼いならされた馬一匹・ラバ一頭・犬二狗・金を散らした器、及び金・銀・霞がかかった錦・美しくて上等な布・虎豹の皮、及び藥など、併せて百種余あった。また智祥・健勳達が別に献上した物が、金・銀・霞がかかった錦・美しくて上等な布・金の器・屏風・鞍の皮・絹布・藥のなど、各々六十種余有った。別に皇后・皇太子及び諸々の親王達に献上する物が、各々多数有った。丙申の日に、多紀皇女・山背姫王・石川夫人を伊勢神宮に派遣した。】とあり、標準陰暦と合致する。

大地震や火災が頻発している中で、爵位や下賜品の大盤振る舞いと同じ王朝記事とは考えられず、大盤振る舞い記事には朔の日干支が記述されるのに、天武10年より後の地震は朔の日干支を記述しておらず、朱鳥という目出たい元号に改元することもあわせると、本来は良いことが起こっていることが考えられる。

『日本書紀』に記述される元号の中で、元明天皇や舎人親王は朱雀年号を記述せず朱鳥年号のみを記述しているが、元明天皇達は『古事記』しか書けなかった人々なのだから、總持天皇の王朝の記事をほとんど書き写したと考えられる。

有遠智娘弟曰姪娘生御名部皇女與阿陪皇女阿陪皇女及有天下居于藤原宮後移都于乃樂或本云名姪娘曰櫻井娘」と、書かせた元明本人の母の名前が解らないはずがなく、天智天皇の子共達は元明天皇の兄弟ではなく、『粟原寺鑪盤銘』の「比賣朝臣額田」が元明天皇で『古事記』が元明天皇の系図、すなわち、額田部推古天皇の末裔である。

天武天皇は『日本書紀』の天智天皇までの資料を、大化と白雉の順が違うのだから、皇極・孝徳・中宮・天智・大化・白雉そして浄御原宮などの、日記のような記事、これらが別々の書として残っていて、さらに、天武・總持天皇と大長改元の資料がまとめられずに有ったと考えられる。

そして、恐らく鏡王女の死によって、白鳳の元号が終わり朱雀改元となった意味を元明天皇は解らず、大長改元を想定して、改元説話が有る朱鳥を記述し、平城宮や藤原宮・元明天皇の事績を含めて記述したのではないだろうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿