2021年2月24日水曜日

最終兵器の目 日本書紀巻第二十九・三十  持統天皇1 

  日本書紀 慶長版は

髙天原廣野姫天皇少名鸕野讚良皇女天命開別天皇第二女也母曰遠智娘天皇深沈有大度天豊財重日足姫天皇三年適天渟中原瀛真人天皇爲妃雖帝王女而好禮節儉有母儀德天命開別天皇元年生草壁皇子尊於大津宮十年十月從沙門天渟中原瀛真人天皇入於吉野避朝猜忌語在天命開別天皇紀天渟中原瀛真人天皇元年夏六月從天渟中原瀛真人天皇避難東國鞠旅會衆遂與定謀廼分命敢死者數万置諸要害之地秋七月美濃軍將等與大倭桀豪共誅大友皇子傳首詣不破宮二年立爲皇后皇后從始迄今佐天皇定天下毎於侍執之際輙言及政事多所毗補朱鳥元年九月戊戌朔丙午天渟中原瀛真人天皇崩皇后臨朝稱制冬十月戊辰朔巳巳皇子大津謀反發覺逮捕皇子大津幷捕爲皇子大津所詿?(言吴:誤)直廣肆八口朝臣音橿小山下壹伎連博德與大舍人中臣朝臣臣麻呂巨勢朝臣多益湏新羅沙門行心及帳內礪杵道作等三十餘人庚午賜死皇子大津於譯語田舍時年二十四妃皇女山邊被髮徒跣奔赴殉焉見者皆歔欷皇子大津天渟中原瀛真人天皇弟三子也容止墻岸音辭俊朗爲天命開別天皇所愛及長辨有才學尤愛文筆詩賦之興自大津洽也丙申詔曰皇子大津謀反詿?(言吴:誤)吏民帳內不得已今皇子大津已滅從者當坐皇子大津者皆赦之伹礪杵道作流伊豆又詔曰新羅沙門行心與皇子大津謀反朕不忍加法徙飛騨國伽藍十一月丁酉朔壬子奉伊勢神祠皇女大來還至京師癸丑地震十二月丁夘朔乙酉奉爲天渟中原瀛真人天皇設無遮大會於五寺大官飛鳥川原小墾田豊浦坂田壬辰賜京師孤獨髙年布帛各有差潤十二月筑紫大宰獻三國髙麗百濟新羅百姓男女幷僧尼六十二人是歳蛇犬相交俄而倶死

【高天原の廣野姫天皇は、幼名は鸕野の讚良の皇女といった。天命開別の天皇の第二女子だ。母の名を遠智の娘という。天皇は、落ち着いていて、物事に動ぜず度量が大きかった。天豐財重日足姫天皇の三年に、天渟中原瀛眞人天皇に嫁いで妃となった。帝王の女子であっても、礼儀を重んじ質素で、母としての徳を持っていた。天命開別天皇の元年に、草壁皇子尊を大津宮で生んだ。十年の十月に、仏門に入った天渟中原瀛眞人天皇と一緒に、吉野に入って、朝廷のねたみきらわれる思いを避けた。この事は天命開別天皇の紀に記述されている。天渟中原瀛眞人天皇の元年の夏六月に、天渟中原瀛眞人天皇に従って、東国に難を逃れた。兵士に集まるよう告げて計略を討議した。それで数万の決死隊を分けさせて、諸々の要所に配置した。秋七月に、美濃の将軍達と大倭の豪傑と共に大友皇子を誅殺して、首が不破の宮に届いた。二年に、皇后になった。皇后は最初から今になるまで、天皇を補佐して天下を安定させた。いつも側に仕えている時に、些細なことから政治に関する事柄まで多くそばで助けた。朱鳥元年の九月の戊戌が朔の丙午の日に、天渟中原瀛眞人天皇が崩じた。皇后は即位せずに政務を執った。冬十月の戊辰が朔の己巳の日に、大津皇子が謀反を起こそうとした。大津皇子を捕らえて、大津皇子の為に過ちを犯した直廣肆の八口の朝臣の音橿、小山下の壹伎の連の博徳と、大舍人の中臣の朝臣の臣麻呂、巨勢の朝臣の多益須、新羅の沙門の行心及び帳内の砺杵の道作達庚午の日に、大津皇子を譯語田の屋敷での死を命じた。その時二十四歳だった。妃の皇女の山邊は髪も結わないではだしで駆け寄って殉死した。見る者皆むせび泣いた。大津皇子は、天渟中原瀛眞人天皇の第三子だ。立ち居振る舞いは孤高で弁舌さわやかだったので天命開別天皇の愛された。長じてわきまえもあり才能が有って文筆をもっとも愛し、漢詩は大津皇子に始まった。丙申の日に、「大津皇子が、謀反しようとした。過ちを犯した役人や人民近習は已むを得ないが今や大津皇子は滅んだ。従者は大津皇子に連座したのなら、皆赦しなさい。但し砺杵の道作は伊豆に流せ」と詔勅した。また、「新羅の沙門の行心は、大津皇子の謀反に従ったが、私は罰を与えるに忍びない。飛騨の国の寺に遷しなさい」と詔勅した。十一月の丁酉が朔の壬子の日に、伊勢のほこらで奉仕する大來皇女が京師に帰って来た。癸丑の日に、地震があった。十二月の丁卯が朔の乙酉の日に、天渟中原瀛眞人天皇のために、すべての人に平等に財と法の施しをする大法会を大官・飛鳥・川原・小墾田の豐浦・坂田の五寺で開いた。壬辰の日に、京師の独り身の高齢者に其々差をつけて絹布を与えた。閠十二月に、筑紫の大宰と高麗・百済・新羅三国の百姓男女と併せて僧尼六十二人を献上した。この歳に蛇と犬が共にすごしたが急に死んだ。】とあり、標準陰暦と合致する。

元明天皇は『古事記』を記述させた時に系図が解っていれば『日本書紀』と同じ系図を記述させたはずで、『日本書紀』を記述させる直前に資料を手に入れたと考えられ、『新唐書』に「天智死子天武立死子總持立・・・長安元年 其王文武立」と記述されて、持統(總持)天皇は天武天皇の子で文武天皇と親子関係がなく、文武天皇は697年ではなく701年即位である。

『粟原寺鑪盤銘』に「奉為大倭国浄御原宮天下天皇時日並御宇東宮・・・比賣朝臣額田以甲午年始至和銅八年」と『古事記』推古天皇の名「額田部皇女」の女系が推定され、比賣朝臣額田は678年死亡の十市皇女の母では694年竣工712年に完成なのだから年齢が合わず、この浄御原宮天下天皇は天智天皇の子の天武天皇で、天智天皇の子や孫でない文武天皇の父が後嗣だった天智天皇の異母兄弟若しくは従弟が日並と想定でき、元明天皇の夫である。

日並は皇極天皇の兄弟では高齢すぎるので、皇極天皇と舒明天皇蘇我蝦夷の子の可能性が有り、元明(阿閇)天皇もその娘元正天皇(日高)も推古天皇→十市皇女の母額田姫とともに女系額田を襲名したと想定される。

全く血縁関係のない『古事記』の系図を元明天皇が採用するとは考えられず、推古天皇は640年代に60歳代と考えられ、元明天皇の崩が720年代で間に3世代の額田皇女達が存在すると思われる。

『古事記』の「忍坂日子人太子亦名麻呂古王」、「日子人太子娶庶妹田村王亦名糠代比売命生御子坐崗本宮治天下之天皇」は日子人ではない推古天皇の兄弟の麻呂古王と庶妹田村王ではない糠代比売の孫が元明天皇で、岐多志毘売の宮が額田部にあり、蘇我倭国王朝の血統を『古事記』で元明天皇が主張した。

持統天皇の名も「廣野姫」で、廣國押武金日・武小廣國押盾・天國排開廣庭・息長足日廣額と続く稲目の広国の系譜を引き継ぐ名前、元明天皇も日本根子天津御代豊國成姫と橘豐日・豊御食炊屋姫・天豐財重日足姫・天萬豊日と馬子の倭国・豊国を引き継ぐ名前である。

『続日本紀』には「奉誄太上天皇謚曰大倭根子天之廣野日女尊」と名前が異なり、「唐人謂我使曰亟聞海東有大倭國謂之君子國」と日本とは別国の大倭国と記述され、元明天皇から「日本根子」の名前を使用して、總持日本天皇から日本の国号を奪い、元明天皇は俀国に敗れた倭国の後裔である。

粟原寺竣工の694年は大化年号が始まる前年で、これまで検証したとおり天智天皇崩の年、天智天皇は49歳崩で天智天皇の子の天武天皇は30歳前後で長男が13歳以下のため天智天皇の次女で蘇我氏の女系の髙天原廣野姫との子の日並が後嗣となったが、日並は廃嫡されて臣下の真人と姓を与えられ、子の文武天皇が第二の壬申の乱で皇位を奪った。

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