『日本書紀』慶長版は
「十二年春正月已丑朔庚寅百寮拜朝廷筑紫大宰丹比真人嶋等貢三足雀乙未親王以下及群卿喚于大極殿前而宴之仍以三足雀示于群臣丙午詔曰明神御大八洲日本根子天皇勅命者諸國司國造郡司及百姓等諸可聽矣朕初登鴻祚以來天瑞非一二多至之傳聞其天瑞者行政之理協于天道則應之是今當于朕世毎年重至一則以懼一則以嘉是以親王諸王及群卿百寮幷天下黎民共相歡也乃小建以上給祿各有差因以大辟罪以下皆赦之亦百姓課役並免焉是日奏小墾田儛及髙麗百濟新羅三國樂於庭中二月巳未朔大津皇子姶聽朝政三月戊子朔已丒任僧正僧都律師因以勅曰統領僧尼如法云云丙午遣多祢使人等返之夏四月戊午朔壬申詔曰自今以後必用銅錢莫用銀銭乙亥詔曰用銀莫止戊寅祭廣瀬龍田神六月丁巳朔已未大伴連望多薨天皇大驚之則遣泊瀬王而?(弔)之仍舉壬申年勳績及先祖等毎時有功以顯寵賞乃贈大紫位發鼓吹葬之壬戌三位髙坂王薨秋七月丙戌朔己丒天皇幸鏡姫王之家訊病庚寅鏡姫王薨是夏始請僧尼安居于宮中因簡淨行者三十人出家庚子雩之癸夘天皇巡行干京師乙巳祭廣瀬龍田神是月始至八月旱之百濟僧道藏雩之得雨八月丙辰朔庚申大赦天下大伴連男吹負卒以壬申年之功贈大錦中位九月乙酉朔丙戌大風丁未倭直栗隈首水取造矢田部造藤原部造刑部造福草部造凢河內直川內漢直物部首山背直葛城直殿服部造門部直錦織造縵造鳥取造來目舍人造檜隈舍人造大狛造秦造川瀬舍人造倭馬飼造川內馬飼造黃文造蓆集造勾筥作造石上部造財日奉造埿部造穴穗部造白髮部造忍海造羽束造文首小泊造百濟造語造凢三十八氏賜姓曰連冬十月乙夘朔巳未三宅吉士草壁吉士泊耆造舩史壹伎史娑羅々馬飼造菟野馬飼造吉野首紀酒人直采女造阿直史髙市縣主磯城縣主鏡作造幷十四氏賜姓曰連丁夘天皇狩于倉梯十一月甲申朔丁亥洽諸國習陣法丙申新羅遣沙飡金主山大那末金長志進調十二月甲寅朔丙寅遣諸王五位伊勢王大錦下羽田公八國小錦下多臣品洽小錦下中臣連大嶋幷判官錄史工匠者等巡行天下限分諸國之境堺然是年不堪限分庚午詔曰諸文武官人及畿內有位人等四孟月必朝參若有死病不得集者當司具記申送法官又詔曰凡都城宮室非一處必造兩參故先欲都難波是以百寮者各往之請家地十」
【十二年の春正月の朔が己丑の庚寅の日に、役人が、朝庭で拝礼した。筑紫の大宰の丹比の眞人の嶋達が、三本足の雀を貢上した。乙未の日に、親王以下公卿までに、大極殿の前に呼び集めて、宴会を開いた。それで三本足の雀を、群臣に示した。丙午の日に、明神御大八洲倭根子天皇の勅命を、諸々の国司と国造と郡司と百姓達は、皆聞きなさい。私は、皇位を継承してからこれまで、天が与えた目出たいしるしは一つや二つではなくたくさん与えられた。聞いたところ、天が与えた目出たいしるしは、政治を行う道理が、天の道に適えば、応えてくれる。今、私の治世では毎年いくつも与えられた。或る時は慎み、或る時は喜んだ。そのため、親王と諸王及び公卿と役人、併せて天下の人々、共に喜び合った。それで小建以上に、禄を各々差をつけて与えた。それで死罪以下、皆、赦免した。また百姓の労役を一緒に免除すると詔勅した。この日に、小墾田の舞及び高麗・百済・新羅の、三国の楽を庭の中で演奏した。二月の己未が朔の日に、大津皇子が、はじめて朝廷の政務に着いた。三月の朔が戊子の己丑の日に、僧正・僧都・律師を任命した。それで「僧尼をまとめおさめることは、法のとおりにしなさい」と詔勅した、云云。丙午の日に、多禰に派遣した使者達が帰った。夏四月の朔が戊午の壬申の日に、「今以後、必ず銅銭を用いなさい。銀銭を用いてはならない」と詔勅した。乙亥の日に、「銀銭を用いることを止めなくてもよい」と詔勅した。戊寅の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行う。六月の朔が丁巳の己未の日に、大伴の連の望多が薨じた。天皇は、大変驚いて、泊瀬王を派遣して弔問させた。なお、壬申年の勲功及び先祖達の時代毎の功績を挙げて、目に見える恩賞と大紫の位を贈って、鼓と笛を鳴らして葬った。壬戌の日に、三位の高坂王が薨じた。秋七月の朔が丙戌の己丑の日に、天皇は、鏡姫王の家に行幸して、病状を聞いた。庚寅の日に、鏡姫王が薨じた。この夏に、僧尼に頼んで、はじめて宮中で安居の修行をさせた。それで仏の教えを信じている者三十人を選んで出家させた。庚子の日に、雨乞いした。癸卯の日に、天皇は、都を巡行した。乙巳の日に、廣瀬・龍田の神のお祭りを行った。この月から八月まで、雨が降らなかった。百済の僧の道藏が雨ごいしたら雨が降った。八月の朔が丙辰の庚申の日に、天下のすべての罪を赦免した。大伴の連の男吹負が死んだ。壬申年の功績で、大錦中の位を贈った。九月の朔が乙酉の丙戌の日に、強風が吹いた。丁未の日に、倭の直・栗隅の首・水取の造・矢田部の造・藤原部の造・疽部の造・福草部の造・凡河内の直・川内の漢の直・物部の首・山背の直・葛城の直・殿服部の造・門部の直・錦織の造・縵の造・鳥取の造・來目の舍人の造・桧隈の舍人の造・大狛の造・秦の造・川瀬の舍人の造・倭の馬飼の造・川内の馬飼の造・黄文の造・蓆集の造・勾の筥作の造・石上部の造・財の日奉の造・泥部の造・穴穗部の造・白髮部の造・忍海の造・羽束の造・文の首・小泊瀬の造・百済の造・語の造、全て三十八の氏に、姓を与えて連と言った。冬十月の朔が乙卯の己未の日に、三宅の吉士・草壁の吉士・伯耆の造・船の史・壹伎の史・娑羅羅の馬飼の造・菟野の馬飼の造・吉野の首・紀の酒人の直・采女の造・阿直の史・高市の縣主・磯城の縣主・鏡作の造、併せて十四の氏に、姓を与えて連と言った。丁卯の日に、天皇は、倉梯で狩りを行った。十一月の朔が甲申の丁亥の日に、諸国に戦法を習わせた。丙申の日に、新羅が、沙飡の金主山・大那末の金長志を派遣して、年貢を進上した。十二月の朔が甲寅の丙寅の日に、諸王の五位の伊勢王・大錦下の羽田公の八國・小錦下の多臣の品治・小錦下の中臣の連の大嶋、併せて判官・史官・技術者たちを派遣して、天下を巡行した、諸国の国境を決めた。しかしこの年に、決められなかった。庚午の日に、「諸々の武官と分官及び畿内の位が有る人達は、四季の始めの月に、必ず朝廷に来内しなさい。もし死んだり病気で、集まれない場合は、担当の役所に、詳しく記録して、司法官に申し送りなさい」と詔勅した。また「全ての都城や宮室は、一つでは足りないので、必ず二つが三つ造る。それで、まず難波に都を造ろうと思う。それで、役人達、各々行って家を建てる土地を願い出なさい」と詔勅した。】とあり、三月戊子朔は2月30日で筑紫の暦で、他は標準陰暦と合致し、郭務悰も帰国し、大化の改新が行われた記述と思われる。
明神御大八洲倭根子天皇の言葉は、『続日本紀』の文武元年八月「現御神〈止〉大八嶋國所知倭根子天皇命授賜」と慶雲四年七月「天皇即位於大極殿詔曰現神八洲御宇倭根子天皇詔旨勅命」と天皇即位の記述で、元明天皇の即位は大八洲ではなく八洲で、元明天皇は日本根子天津御代豊国成姫で大が付加されず、大を付加されるのは持統天皇で、大倭根子天之廣野日女尊と名前に対応し、すると、文武天皇の即位の大八嶋國所知倭根子は文武天皇の名が倭根子豊祖父で大が付加されないことから持統天皇の即位を『続日本紀』が記述していることになってしまう。
『続日本紀』で唐に遣使して「大倭國」と自称していて、天皇名に日本が付加されるのは元明天皇からで、それまでは大倭の天皇で、元明天皇の時に統一朝廷が完成したことを示し、大長の元号が終わるのは元明朝である。
また、元号がこの年に白鳳から朱雀に代わっていて、661年から長く続いた元号が、670年の日本建国の時も変わらなかった元号が変わっていて、名実ともに日本国の建国を述べ、そこに、持統天皇の即位を当て嵌めている。
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